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芸術・哲学 ·

# 【芸術って何だろ? #93】ルネサンス — 人間が神になった時代

# 【芸術って何だろ? #93】ルネサンス — 人間が神になった時代

【芸術って何だろ? #93】ルネサンス — 人間が神になった時代

中世の終わり、または人間の発見

ヨーロッパは長い間、暗かった。

正確に言おう。暗くはなかった。ただ、絵画の関心が人間から逸れていた。ゴシックの職人はガラスに鉛で線を引いた。彼らの主題はキリストだった。聖母マリアだった。天使と最後の審判だった。人間は背景に過ぎなかった。人間は小さく描かれた。遠近は歪んでいた。輪郭は金箔に食い込んだ。

それが十四世紀に変わった。

変わった場所はフィレンツェだった。理由は単純だった。金があった。フィレンツェの銀行家はヨーロッパ全土に貸し付けた。返済は確実だった。彼らは手数料で儲けた。そして余剰の資本を絵画と彫刻と建築に注ぎ込んだ。

人間が見る角度が変わった。

ジョルジョ・ヴァザーリは後にこれを「リナシタ」と呼んだ。再生。フランス語でルネサンス。語源は再生だが、実際の現象は爆発だった。千年の間、人間は神の被造物だった。急に、人間は自分自身の主題になった。これをヒューマニズムと呼ぶ。人文主義。古典ギリシャ・ローマの文献が再発見された。プラトンが読まれた。キケロが読まれた。そして画家たちは気づいた。人体は測定可能だった。比例があった。筋肉は骨に付着していた。神が宇宙を設計したなら、人間もまた設計を解読できた。

これは謙虚さの終わりだった。

線遠近法という幾何学

一九一三年ではない。一四一三年だ。

フィリッポ・ブルネレスキはフィレンツェの大聖堂の前に立った。彼は一枚の板を持っていた。板にはサン・ジョヴァンニ洗礼堂が描かれていた。板には小さな穴が開いていた。彼は穴から覗き込んだ。そして板の裏に鏢を持った。鏡に板の絵が映った。現実の洗礼堂と絵の洗礼堂が重なった。重なった。これは遠近法の最初の実証実験だった。

ブルネレスキは一つの消失点を定めた。平行線はすべてその一点に収束した。これが線遠近法だった。単純な幾何学だが、千年来の絵画から消えていた。

レオン・バッティスタ・アルベルティは一四三五年にこれを体系化した。著作の名は『絵画論』。ラテン語版とイタリア語版があった。アルベルティは絵を「窓」と定義した。絵は平面ではない。絵は奥行きを持つ枠組みだった。消失点、地平線、視点。三つの要素で三次元空間が二次元に投影された。

マサッチョはこれを早速適用した。『三位一体』。一四二七年頃。サンタ・マリア・ノヴェッラ教会、フィレンツェ。壁画のキリストは十字架に架かっている。背景に桶型ヴォールトがある。そのヴォールトは正確に消失点に収束する。見る者は奥へ引っ張り込まれる。マサッチョは二十七歳で死んだ。だが彼が残した枠組みは三百年間、ヨーロッパの絵画の基礎になった。

メディチ家 — 銀行が芸術を買った

コジモ・デ・メディチは用心深い男だった。

彼はフィレンツェの表向きの支配者ではなかった。フィレンツェは共和制だった。だがメディチ銀行はヨーロッパ最大の銀行だった。十五世紀。支店はローマ、ヴェネツィア、ナポリ、ミラノ、ジュネーヴ、リヨン、ブリュージュ、ロンドンにあった。教皇の口座を預かっていた。コジモは金を貸した。金で政治を買った。金で芸術を買った。

メディチ家のパトロンのリストを読めば、フィレンツェ・ルネサンスの目録そのものになる。ドナテッロ。ブルネレスキ。フラ・アンジェリコ。ボッティチェッリ。フィチーノ。ポリツィアーノ。そして最後に、レオナルド・ダ・ヴィンチ。

孫のロレンツォは「豪華王」と呼ばれた。在位、一四六九年十二月二日から一四九二年四月八日。四十三歳で死んだ。痛風だった。ロレンツォは銀行家であり、詩人であり、陰謀家だった。一四七八年、パッツィ家の陰謀で弟ジュリアーノが聖堂で刺殺された。ロレンツォは生き延びた。彼は庭園に彫刻のコレクションを置いた。若い彫刻家をそこに住まわせた。その一人がミケランジェロ・ブオナローティだった。十五歳だった。

芸術は金で買われた。メディチの金は教皇庁にも流れた。メディチ家から二人の教皇が出た。レオ十世。クレメンス七世。どちらも芸術に金を使った。教皇庁は武力と信仰と金の三点セットだった。そしてその金の多くが、芸術家の工房に落ちた。

レオナルド・ダ・ヴィンチ — 知ることの暴力

レオナルドは一四五二年四月十五日に生まれた。ヴィンチの村で。私生児だった。

正式な教育を受けなかった。ラテン語を大人になってから学んだ。だが彼は観察した。彼はすべてを観察した。水流。鳥の飛翔。人体の解剖。彼は死体を解剖した。三十体以上。彼は筋肉の付着を描いた。心臓の弁を描いた。胎児を描いた。これらは絵のためだった。だが絵はいつも完成しなかった。知ることの方が面白かったからだ。

『モナ・リザ』。一九〇三年に描かれたのではない。一五〇三年だ。ポプラ材の板に油彩。縦七七センチ、横五三センチ。小品だ。フィレンツェの商人の妻、リザ・デル・ジョコンドを描いたとされる。レオナルドは完成させなかった。一五一七年まで手元に置いた。その年、フランス王フランソワ一世が買った。現在はルヴァール美術館にある。一七九七年から展示されている。一九一一年にヴィンチェンツォ・ペルージャに盗まれた。二年後に発見された。板は歪んでいる。ひびが入っている。ニスは黄変している。だが微笑みは残っている。その微笑みはスフマートで作られている。後で説明する。

『最後の晩餐』。ミラノ、サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会。壁画だが、フレスコではない。テンペラと油を混ぜた実験的な技法だった。失敗だった。完成直後から剥落し始めた。修復が二十回以上行われた。それでも残っている。キリストが十二人の弟子とテーブルを囲む。構図は透視図法で設計されている。消失点はキリストの右こめかみにある。

レオナルドは一五一九年五月二日に死んだ。アンボワーズで。六十七歳。彼は絵を完成させなかった。だが彼は知ることを止めなかった。

ミケランジェロ — 石の中に潜む形

ミケランジェロ・ブオナローティは一四七五年三月六日に生まれた。死んだのは一五六四年二月十八日。八十八歳。長生きした。

彼は石を信じた。彼は彫刻をこう定義した。石の中に潜む形を取り出すこと。ノミは余分なものを削るだけだ。

『ダヴィデ』。カッラーラ産大理石。高一七・一フィート。五メートル十七センチ。幅一九九センチ。重量、五・五トン以上。一五〇一年八月から制作開始。一五〇四年六月八日に完了。三年弱。聖書のダヴィデ。ゴリアテを倒す直前。筋肉が張っている。血管が浮いている。顔は微かに緊張している。フィレンツェ、シニョリーア広場に置かれた。共和政の象徴だった。現在はアカデミア美術館にある。

システィーナ礼拝堂の天井。これは話が別だ。

教皇ユリウス二世が注文した。ミケランジェロは自分を彫刻家だと思っていた。画家ではなかった。だが教皇の命令は絶対だった。一五〇八年五月から一五一二年十月。四年三ヶ月。足場を組んだ。仰向けに描いた。漆と顔料が目に入った。首が固まった。天井の面積は約四〇メートル×一三・四メートル。五三六平方メートル。創世記の九つの情景。『アダムの創造』がその中心にある。神の指とアダムの指の間に隙間がある。その隙間は数センチだ。そこにすべてがかかっている。

一八八〇年から一九九四年にかけて修復された。洗浄後、色は鮮やかだった。鮮やかすぎた。批判があった。だが元の顔料は確かに明るかった。

ミケランジェロは八十八歳まで石を削った。最後の作品は『ロンダニーニのピエタ』。未完成。彼は石の前で倒れた。

ボッティチェッリとラファエロ — 理想の計算

サンドロ・ボッティチェッリはメディチ家の専属画家だった。一四四五年生まれ。一五一〇年没。

『ヴィーナスの誕生』。テンペラ。キャンバス。縦一七二・五センチ、横二七八・九センチ。一四八〇年代半ば。ウフィツィ美術館。ヴィーナスが貝の上に立っている。左からゼピュロスが風を吹く。右からホーラがマントを差し出す。ヴィーナスは裸だ。キリスト教の絵画では裸は禁忌だった。だがここでは異教の女神が裸で許された。肌は白い。輪郭は明確だ。影は浅い。これは三次元の人体ではない。これは装飾的な線の設計だ。ボッティチェッリは遠近法に無関心だった。彼は線に関心があった。線は歌った。

ボッティチェッリは後に Savonarola の説教に感化された。自身の絵を焼いたと伝えられる。異教の主題を捨てた。だが『ヴィーナスの誕生』は残った。そして私たちも残した。

ラファエロ・サンツィオは四者の中で最も若かった。一四八三年生まれ。一五二〇年四月六日に死んだ。三十七歳。レオナルドより三十一年若く、ミケランジェロより八年若かった。

『アテネの学堂』。ヴァティカン、署名の間。フレスコ。縦五メートル、幅七メートル以上。一五〇九年から一五一一年。プラトンとアリストテレスが中心にいる。プラトンは天を指す。アリストテレスは地を指す。周囲に五十八人の哲学者と数学者がいる。ピタゴラス。エウクレイデス。ヘラクレイトス。構図は完璧に対称だ。消失点は二人の哲学者の間にある。タイルの床は正確に収束する。ラファエロは調和を計算した。彼はミケランジェロの激しさを持たなかった。だが彼は完成度を持っていた。そして早く死んだ。

スフマートとキアロスクーロ — 光の工学

芸術家には道具が必要だった。材料と技法。

スフマート。イタリア語で「煙のようにぼかす」。レオナルドが発明した、とされる。原理は単純だ。輪郭線を描かない。色と色の境界を指でこする。何層もの薄い釉を重ねる。三十層以上。『モナ・リザ』の微笑みはここから来る。口角の陰影が曖昧だ。脳は曖昧さを表情と解釈する。笑っているように見える。あるいは見えない。これが工学だ。

キアロスクーロ。明暗法。光と闇の強い対比。レオナルドも使ったが、後のバロックのカラヴァッジョが極限まで推し進めた。ルネサンスでは、光は形を定義する手段だった。影が体積を作った。ゴシックの平面的な輝きは消えた。代わりに、光源が一つ設定された。光は一方向から当たった。陰は反対側に落ちた。これが三次元の錯覚を生んだ。

テンペラと油彩の移行も重要だった。テンペラは卵黄を媒介にした。乾きが速い。修正が困難。油彩は亜麻仁油を媒介にした。乾きが遅い。何日でも修正できる。重ね塗りができる。北のヤン・ファン・エイクが油彩を改良し、南のイタリアがそれを採用した。モナ・リザの釉層は油彩なしには不可能だった。

そしてフレスコ。ミケランジェロの天井の技法。水溶性の顔料を湿った漆喰に塗る。漆喰が乾くと顔料が固定される。乾く前に塗らなければならない。一日の作業量はジョルナータと呼ばれた。システィーナの天井には約三百のジョルナータがあった。一度乾けば剥がれにくい。だから五百年後にまだある。

これらはすべて、人間の目を騙すための技術だった。目は立体を見たがっていた。芸術家はその要求を満たした。

ルネサンスの遺産

ルネサンスはいつ終わったのか。

正確な日付はない。だが一五二七年、ローマ劫掠があった。神聖ローマ皇帝カール五世の兵がローマを略奪した。教皇クレメンス七世は逃げた。芸術家は散った。これを一つの区切りとする歴史家がいる。

だが技術は消えなかった。線遠近法は残った。スフマートは残った。キアロスクーロは残った。油彩は残った。これらは一九〇〇年代にも使われた。二〇〇〇年代にもデジタル空間で生きている。三次元レンダリングは透視図法の応用だ。消失点はまだある。

そして概念も残った。天才という概念。個人の創造性という概念。芸術家は職人ではなくなった。芸術家は作者になった。著作権が生まれた。署名が生まれた。自画像が生まれた。これはルネサンス以前にはなかった。中世の職人は名前を残さなかった。ルネサンスの芸術家は名前を残した。レオナルドは残した。ミケランジェロは残した。ラファエロは残した。

彼らは人間だった。だが彼らは神のように振る舞った。石に命を吹き込んだ。平面に奥行を与えた。死体を解剖して生を理解した。彼らは限界を押し上げた。

人間が神になった。これがルネサンスの正確な説明だ。


【加藤ラジコン出版記事 #93】

免責事項:本記事に記載の歴史的年号、寸法、技法、帰属は執筆時点で確認可能な範囲で正確を期していますが、美術史研究は継続的に更新されます。数値や解釈は出典によって異なる場合があります。本記事の内容は芸術哲学の考察を目的とするエッセイであり、学術論文ではありません。