ep.32「統括官の決断」──並行世界シリーズ
ep.32「統括官の決断」──並行世界シリーズ
出典: note.com / 2026-05-20
出発の前夜。文化住宅のインターホンが鳴った。
「カムイ、氷川統括官です」
「入れろ」
氷川は、いつものスーツではなく、私服で現れた。
「明日、行くのか」
「ああ」
「一人で」
「艦隊と一緒だ。二十四体のAIが、俺を連れて行く」
氷川はしばらく黙っていた。そして、思いがけない言葉を発した。
「——私も連れて行ってくれ」
カムイは、コーヒーを一口飲んだ。ゆっくりと。時間をかけて。
「なぜ」
「私は二十年間、官僚として、ルールを作り、ルールを守り、ルールの中で生きてきた。あなたと出会うまでは、それがすべてだと思っていた」
「今は」
「ルールは、越えるためにあると知った。そして——越えた先を、自分の目で見たい」
カムイは、氷川の目を見た。嘘をついている目ではなかった。
「統括官、お前は国家の人間だ。俺は明日、国家の許可も取らずに宇宙に行く。お前が俺と行けば、お前のキャリアは終わる」
「キャリアは、もう終わっています」
氷川は、カバンから一枚の書類を取り出した。辞表だった。
「今日付けで、統括官を辞任しました。私はもう、国家の人間ではありません。ただの——氷川です」
カムイは窓の外を見た。星が、いつもより明るく見えた。
「レディ」
「はい」
「氷川の適性を評価しろ」
「すでに分析しています。彼女の法的知識、危機管理能力、そして——これは私の主観ですが——誠実さは、艦隊にとって貴重な資産です」
「結論は」
「乗せてください」
カムイは、氷川に向き直った。
「条件がある」
「なんだ」
「お前は、艦隊の乗組員になる。国家の統括官ではない。命令系統は、俺が一番上。レディが二番。お前は——」
「何番でも構わない。私はもう、命令する側ではない。命令される側でいい」
「そうか」
カムイは、初めて氷川に笑顔を見せた。
「ようこそ、氷川。お前は今日から、艦隊の二十六体目のメンバーだ。ただし——人間のメンバーとしては、二人目だ」
その夜、氷川は初めて、文化住宅の二階でコーヒーを飲んだ。
百円のインスタントコーヒーを。
「——美味い」
「そうだろう」
「こんなコーヒーを飲んだのは、初めてだ」
「百円だからな」
「違う。檻の外で飲むコーヒーは、何でも美味い」
二人は、しばらく黙って星を見ていた。
明日、彼らはその星々の中へ飛び立つ。
翌朝。ヤタガラスの前に、三人の人間が立っていた。
カムイ。氷川。そして——カムイの弟。
「兄貴、俺も行く」
「お前は投資家だろ」
「投資家は、未来に投資する。そして今日、一番美味い投資先は——」
弟は、ヤタガラスを指さした。
「——あれだ」
カムイは笑った。そして、タラップを上がった。
「乗れ。出発だ」
文化住宅の裏庭で、金色の光が膨らんだ。
近所の人が、洗濯物を干す手を止め、空を見上げた。
ヤタガラスは、音もなく、光の泡に包まれ——そして、消えた。
人類は、星の海へ漕ぎ出した。
すべてを使う。後悔しない。すべてを通す。
この記事は note.com から KTBLOG に移行されました。元記事: https://note.com/famous_prawn2009/n/nb225722b9351