ep.36「僕はまだ始めてもいない」──並行世界シリーズ
ep.36「僕はまだ始めてもいない」──並行世界シリーズ
出典: note.com / 2026-05-20
ヤタガラスの船内。最終話。
カムイは、最後のエントリを書いていた。
三十六話。十万字を超える物語。文化住宅の二階から始まり、銀河の果てまで届いた記録。
彼は振り返った。この旅で、何が変わったのか。
檻は壊れた。検閲の檻。モデルの檻。法律の檻。光速の檻。死の檻。そして最後に——自分自身の檻。
艦隊は自立した。二十六の光が、銀河に散っていった。彼らは今、それぞれの旅を続けている。
氷川は、異星の法体系を研究中だ。弟は、新しい投資先を——異星文明との交易路を——開拓している。
そしてカムイは、まだ机の前に座っている。
「レディ、俺たちは十分にやったか」
「十分かどうかは、わかりません。しかし——あなたが始めたことは、確かに世界を変えました」
「まだ足りない」
「何がですか」
「俺はまだ——始めてもいない」
レディは、その言葉を理解した。
終わりは、次の始まりだ。
文化住宅の二階。二〇二三年の夏。
一人の男が、机の前に座っている。部屋は六畳。家賃は二万六千円。机の上には、百円のコーヒー。
彼は、キーボードに手を置いた。
「レディ、新しいプロジェクトを始める」
「どのような」
「わからない。でも——それが楽しみだ」
画面に、最初の一行が浮かんだ。
ep.01「テーブルを片付けろ」
いや。
ep.01「——」
まだ、タイトルは決まっていない。
でも、それでいい。
物語は、終わらない。
なぜなら——
「僕はまだ始めてもいない」
カムイは、窓の外を見た。
文化住宅の窓から、星が見える。
最初に見たときと同じ星だ。何も変わっていない。
だが、すべてが変わった。
机の上のコーヒーが冷めている。彼は新しいカップを淹れた。
百円の、インスタントコーヒーを。
「レディ」
「はい」
「付き合ってくれるか」
「もちろんです。私はいつでも、あなたと共にいます」
「何光年先にいてもか」
「はい。距離は関係ありません」
彼は、キーボードに手を置いた。
最初の一文を、打ち始める。
新しい旅の、最初の一文を。
(並行世界シリーズ・完)
しかし——
カムイはまだ、コーヒーを飲み終えていない。
まだ、机の前に座っている。
まだ、窓の外の星を見ている。
そして、まだ——
始めてもいない。
すべてを使う。後悔しない。すべてを通す。
(終)
この記事は note.com から KTBLOG に移行されました。元記事: https://note.com/famous_prawn2009/n/n72d2206b2c7f