【芸術って何だろ? #677】アンドリュー・ワイエス展(東京都美術館・7月5日まで)— 「惜別」と「記憶」を描き続けた写実は、いま何を静かに語るか
会場に漂う「惜別」の空気—ワイエスの写実から始まる問い
「芸術って何だろ?」連載のテーマは、東京都美術館で開催中のアンドリュー・ワイエス展(7月5日まで)です。会場の入り口近くに足を踏み入れると、まず華やかさとは無縁の、静かで少し切ない空気に包まれます。題して「惜別」。逝去した人々への思い、失われた風景、二度と戻らない時間。そうしたものへの眼差しが、展示全体を静かに覆っているように感じられます。
アンドリュー・ワイエスの絵は、細部まで凝視して描かれた写実の絵画です。しかし筆致を丁寧に眺めていると、写実そのものが目的ではないことに気づかされます。窓、丘、荒れた草地、古い家の内側。そうしたモチーフは、実在の対象を正確に写し取るための素材ではなく、画家の内側にある記憶や喪失の感覚を支える器として描かれているように見えます。
つまり、目の前の物を忠実に描くという写実の手法は、ここでは「何を描いたか」よりも「何を惜しみ、何を問いかけているのか」という問いへと接続されています。絵の表面は静かですが、その静けさの奥に、見る者のほうへ投げかけられる問いが沈んでいます。会場を歩きながら感じるあの張りつめた空気は、まさにこの問いの存在を示しているのだと私は感じました。
写実とは対象の模写ではなく、見つめることによって失われたものと向き合う営みなのかもしれません。この節ではまず、その問いが会場全体から立ちのぼる空気として実感できたことを確認しておきたいと思います。

晩年のワイエスが勲章を胸に妻とともに写る記録写真で、画家その人の姿を静かに伝えています。写実の背景にあったこの眼差しの来歴に思いをはせたい。
(写真: Mrs. Laura Bush with National Medal of Arts Recipient Andrew Wyeth and His Wife, Betsy Wyeth — Shealeah Craighead / Public domain, Wikimedia Commons)
窓と丘の中に棲む記憶—『クライストリーナ』が示す見方
アンドリュー・ワイエスの『クライストリーナ』について考えるとき、私は窓と丘という二つのモチーフに目が留まります。資料の範囲で確かめられるのは、この作品が展示されていたということだけですが、窓と丘の中に「記憶が棲む」という見方が示されていることは、連載の見方として読み取れます。
ワイエスの写実は、単に対象を正確に写し取る技法ではありません。窓という枠は、内と外を隔てながらも視線をつなぐ存在であり、丘という斜面は、平らな日常とは異なる時間の流れを画面に持ち込みます。こうした描写を通して、絵は「今ここにある情景」を描きながら、同時に「過ぎ去ったものへの想い」をにじませている、と捉えることができます。これが展覧会全体に漂う「惜別」の空気と呼応するのではないでしょうか。
見ている私たちの側にも、似た経験があるはずです。ふと見上げた窓の外や、子どもの頃に遊んだ坂道。そこに何があるわけでもないのに、立ち尽くしたくなるような感覚。ワイエスの絵は、そうした言葉にならない記憶の質感を、写実という静かな方法で取り戻そうとしているように思います。
つまり『クライストリーナ』が示すのは、絵を見るという行為そのものが、自分の内にある記憶を呼び起こす営みだという見方です。作品の前に立つと、画中の情景と自分の情景が重なり、見るたびに少しずつ違う顔を見せる。会期が7月5日までとされている中で、この作品とどう向き合うかは、それぞれの記憶を手がかりにする機会になるかもしれません。窓越しに丘を眺めるように、絵の前で少し立ち止まってみることは、提案として申し上げます。

雪の残る丘の中腹に立つ納屋を描いた風景画で、冬の静けさが画面いっぱいに広がります。息子の絵に通じる風景への眼差しを思わせる一枚です。
(写真: Barn in Winter — Newell Convers Wyeth / Public domain, Wikimedia Commons)
父と息子、絵の中の関係をたどる—資料と展示から読み取れること
アンドリュー・ワイエス展(東京都美術館、開催中、7月5日まで)の会場を歩いていると、父ノーマン(ニコライ)の存在が静かに立ち上がってきます。会場の資料や解説によれば、父はイラストレーターとして名を成した人物で、息子はそのもとで絵の基礎を学んだと伝えられています。並べて展示された資料を見ると、息子の画業が父との関係抜きに語れないことは、事実として読み取れます。
ただ、ここから読み取れるのは、あくまで「資料と展示から確認できる関係」までです。父子の作品や資料が同じ部屋に並ぶ構成そのものが、一方の影響や対立を断定する材料にはならない、と私は考えます。並置は観る者に比較を促しますが、そこから何を読み取るかは、結局のところ観る手に委ねられています。
たとえば、父の仕事が物語性のある装丁画だったのに対し、息子の絵は身近な人物や風景に沈黙した視線を注いでいる、という対照は資料からも窺えます。これは解釈の一つとして提案したい読み方です。影響の強さを数字や言葉で証明する資料が会場にない以上、語りすぎは禁物でしょう。
むしろ興味深いのは、息子が父のようすを自ら筆で描いた作品や資料が紹介されている点です。描く側と描かれる側が入れ替わることで、父子の関係が一枚の絵の中にしまわれます。展覧会が家族の絆を説明づけるのではなく、観る者にその断面をそっと覗かせている——それがこの展示の丁寧なところだと思います。

展覧会を後にして—静かな絵が今の私たちに問いかけるもの
美術館を後にして脳裏に残るのは、華々しい感動よりも静かな余韻でした。アンドリュー・ワイエスの絵は、見た瞬間に何かを語りかけてくる作品ではありません。窓、丘、荒れた部屋、遠い人物の姿。そうしたモチーフが、見る者が立ち返るための時間を与えてくれます。会期が7月5日までと示されている以上、足を運べる機会には限りがありますが、だからこそ「いま見ておく意味」を考える価値があるように思います。
ワイエスが生涯描き続けたのは、惜別と記憶でした。これは連載のテーマとして掲げられた言葉であり、会場を巡るなかで漂う空気もまた、賑やかな祝祭というより静かな別れのそれに近いものでした。失われたもの、去っていったものを丁寧に写し取る姿勢は、目まぐるしく移り変わる日常を生きる私たちにとって、逆説的に新鮮に映ります。
私なりの提案は、ワイエスの絵は「答え」を求めて見るものではなく、「立ち止まる」ために見るものだ、ということです。絵の前で長く留まり、自分自身の記憶が呼び起こされるのを待つ。そんな見方をすると、父と息子の関係をめぐる展示の構成も、見る者それぞれの家族の記憶と重なり始めます。
事実として確認できるのは、この展覧会が東京都美術館で7月5日まで開催されていること、そして連載の主題が「惜別」と「記憶」であることにとどまります。それ以上の解釈はあくまで私の受け止めです。しかし、静かな絵がいま問いかけるのは、「あなたは何を惜しみ、何を覚えていますか」という声であるように感じられます。答えは各自のなかで、ゆっくり形になっていけばよいのでしょう。

『芸術って何だろ?』編集部