【芸術って何だろ? #675】ルオーのアトリエの「秘密」— 画材と未完作品から「技法と精神性」を読む
アトリエに残されたもの
画家ジョルジュ・ルオーを語るとき、忘れてはならないのが、パリに残された彼のアトリエの存在です。画家が亡くなったあとも、その空間には日々の制作の痕跡がそのまま残されていました。イーゼル、パレット、棚に並ぶ絵具の壺、使い込まれた筆やヘラ。それらは単なる遺品ではなく、画家が何と向き合い、どんな手順で絵を組み立てていたのかを、静かに語りかけてくる貴重な手がかりだと言えます。
アトリエに残されたものの中で、とりわけ印象的なのは、制作の途中で置かれたままの作品群です。完成して基壇から下ろされた絵だけが、画家の実像を示すわけではありません。むしろ描きかけの状態にこそ、迷い、試行、そして次の一手を探る画家的な思考が、素肌のまま現れます。どこを厚く塗り、どこを下地のまま残すのか。そうした判断の跡は、完成品の整えられた表面からは読み取りにくいものです。
また、画材そのものも重要な証言者となってくれます。ルオーが長年愛用したとされる技法は、セラミックやステンドグラスを思わせるような黒い輪郭と重い色面で広く知られていますが、アトリエに残る道具や絵具の状態は、その独特な画面づくりが机上の理論から生まれたのではなく、日々の作業の中から少しずつ育まれたものであることをうかがわせます。
もちろん、残された品々から何を読み取るかには、解釈の余地が残されています。しかし、アトリエという空間を一つひとつ丁寧にたどることは、完成した作品そのものを見ることとはまた別の角度から、ルオーの技法と精神性に迫る有効な手段になりうるでしょう。以下の節では、この視点をもう少し具体的に掘り下げていきます。

黒い絵具と厚い塗り
ジョルジュ・ルオーの画面を特徴づける要素として、まず挙げられるのが黒い輪郭線と厚い絵具の盛り上がりです。暗い色面の上に黒で輪郭を太く引く構成は、ステンドグラスを想起させるとしばしば指摘されますが、あくまで比喩的な説明であり、制作意図を裏付ける記録として示すことはできません。事実として確認できるのは、彼の作品に黒や濃紺といった暗い色調が支配的であり、絵具が厚く塗り重ねられている例が多いという画面上の特徴です。
厚塗りには、油絵具の物性が関わっていると考えられます。絵具を厚く盛り上げれば、筆やパレットの動きがそのまま画面に刻まれ、平坦な色面には残らない制作の痕跡が可視化されます。ルオーの場合、後年、描き直しや塗り直しを長期間にわたって繰り返したとされる経歴が伝えられており、厚く重なった絵具の層は、そうした修正の積み重ねを物語っている可能性があります。ただし、どの層がどの時期の筆致にあたるのかを特定するには、作品そのものを丹念に調査する必要があります。
黒い絵具の扱いについても、単に暗い画面を作るための色としてではなく、形を囲い込む構造として機能している箇所が見て取れます。輪郭を黒で強調することで、顔や身体が単純化され、図案的な力強さを帯びるのです。この構成が宗教画や道化、裁判官を題材とした作品でどのように展開していったのかは、次の見出しで扱う「未完」の作品群を眺めるとき、いっそうはっきりと読み取れるはずです。

「未完」として残った作品たち
ルオーのアトリエには、完成をみないまま残された作品が数多くありました。これらの「未完」の作品は、画家がどのように絵を組み立てていたかを知るうえで、完成作とは異なる種類の情報を与えてくれます。
一般に、絵画の制作過程は、完成作の表面から読み取ることは容易ではありません。しかし、未完の状態で留められた作品には、下塗りの段階、絵具を重ねる順序、輪郭線を引く時期と色面を置く時期の前後関係などが、そのままの姿で見えています。ルオーの場合、黒い輪郭線を先に据えてから、その内側に濃い色を厚く重ねていくという手法が指摘されていますが、未完作品はこうした重ね方の途中の段階を示してくれるものと考えることができます。
また、「未完」という状態そのものも見逃せません。晩年のルオーは、気に入らない作品を自ら破棄したという逸話が知られています。完成とみなしたものだけを世に残そうとする強い姿勢があったとすれば、アトリエに残った未完作品は、破棄を免れた途上の絵、つまり画家自身がまだ決着をつけていなかった絵だということもできるでしょう。そこには、本人にとっての「未完」の意味が刻まれている可能性があります。
ただし、どの作品が意図的に残されたものなのか、制作のどの段階で手が止まったのかについては、画材や裏面の状態を丁寧に調べないと分からない部分が多く残されています。ここで述べた読み方は、あくまで未完作品という対象を考えるうえでの一つの視点の提案です。次の節では、画材そのものに注目して、この画家の精神性に迫ってみたいと思います。

画材から読み取る精神性
ジョルジュ・ルオーの絵画を語るとき、画材そのものが彼の精神性を映し出していると考えられる点は、見逃すことができない大切な視点です。ただし、ここで参照できる資料からは詳細な技術記録を読み取ることができないため、以下では一般的に知られている彼の制作の姿をもとに、推測を交えながら整理してみることにします。
ルオーは黒い絵具による力強い輪郭線を用い、その上に絵具を厚く何層にも重ねていきました。この重層的な塗りの繰り返しは、単なる表現技法にとどまらず、思索を絵の表面へ積み重ねていくような行為だったのではないかと推測されます。描いては塗り直すという手順の積み重ねが、彼自身の内面との対話の記録になっていた可能性は十分にあるでしょう。
また、黒い輪郭線が帯びる力強さは、彼の敬虔な世界観と響き合っていたと考えられます。線が対象を囲い、形を際立たせるそのようすは、ステンドグラスを思わせるとよく言われますが、これはあくまで見た目の類似を述べたものであり、制作意図を裏付ける資料がここには存在しない点を、あらかじめ付言しておきます。
画材の選択から精神性を読み取るという視点は、作品鑑賞の一つの提案として提示できるものです。彼が実際に何を、どのように意図したのかを確かめるには、当時の制作記録や手記といった資料をあたることが望ましいでしょう。とはいえ、厚く重ねられた絵具の層そのものが、彼の粘り強い制作態度を静かに物語っていると感じ取ることは、鑑賞者にとってきわめて自然な読みなのだと言えるでしょう。

『芸術って何だろ?』編集部