【芸術って何だろ? #681】レオ・レオニ作品の版画がオンラインストアで取扱開始 — 『スイミー』は「教科書の絵」から「暮らしに置けるアート」へ何を変えて渡るか
『スイミー』がオンラインストアに並ぶまで — レオ・レオニ版画の取扱開始について
今回、レオ・レオニの作品が版画としてオンラインストアで取扱開始となりました。その中に『スイミー』があります。
『スイミー』といえば、小さな黒い魚が仲間たちと力を合わせて、大きな魚の形を作る物語です。多くの人にとって、この絵はまず教科書や絵本のページで出会ったものではないでしょうか。ページをめくるたびに現れる絵は、物語と一体のものでした。
版画として店頭に並ぶということは、同じ絵がページという「容器」から離れ、額に収められた一枚として届くことを意味します。紙の大きさも、インクの乗り方も、見え方は少しずつ変わります。オンラインストアでは画像で確認できるとはいえ、実際に手にしたときの質感や色味は、画面越しとは異なるはずです。資料として明記された詳細な仕様はここでは触れませんが、版画という形式そのものが、原作の絵を暮らしの空間に置けるかたちへ移す手段になっていることは確かです。
取扱開始までには、絵の選定や版の仕上げなど、複数の段階があったと考えられますが、その工程の詳細についての記録は手元にはありません。分かるのは、絵本のページにあった『スイミー』が、選んで飾れる作品として新たに世に出た、という事実です。
小さな魚の物語を知っている人ほど、この一枚に特別な思いを抱くかもしれません。初めて会う人にとっても、ページの文脈なしにこの絵を見るとき、そこには新鮮な印象が生まれるでしょう。ページから離れて初めて見えるものがある、というのが、取扱開始を知ったときの素直な感想です。

教科書のページから額装の一枚へ — 「見慣れた絵」の移ろい
『スイミー』という絵を思い浮かべるとき、多くの人の頭に浮かぶのは、教科書や絵本のページの中の光景ではないでしょうか。小さな黒い魚が群れになって大きな魚の形をつくる、あの場面は、国語の教科書にも採用され、何度も目にするうちに「見慣れた絵」として記憶に刻まれていきました。
ところで、その「見慣れた絵」が、ページから離れて一枚の版画として額装され、壁にかけられるとき、同じ絵は少し違う顔を見せます。教科書のページでは、絵は物語の流れの一部として、文字とともに素早く眺められるものでした。ページをめくる速度に合わせて視線が通り過ぎていく、そのような見られ方です。一方、額装された版画は、物語の途中の一瞬を切り取り、それだけで壁の上に立ちます。見る人の側も、学習の文脈ではなく、部屋の中でふと目を留めるというかかわり方になります。
興味深いのは、絵そのものには何も変わっていないという点です。変わるのは、絵を取り巻く状況、つまりどこに置かれ、どんな間合いで見られるかという条件のほうです。ページの上では絵は読むもの、壁の上では眺めるものへと、受け取り方がそっと移り変わるのです。教材としての役割をいったん離れても、「見慣れた」ことから生まれる親しみは消えず、むしろ暮らしの中で絵と向き合う入り口になり得るように思います。記憶の中にある絵が、同じ姿のまま別の場所で息を吹き返す——版画というかたちを選ぶことは、絵にとってそうした移ろいのひとつなのではないでしょうか。

暮らしに置かれたとき、絵は何を引き受けるか
「暮らしに置かれたとき、絵は何を引き受けるか」という問いを、この節では考えます。教科書のページで見ていた絵は、多くの子どもたちが同じ時間に同じものを眺めるという、ある種の公共性を担っていました。学級の一斉学習の中で示される絵は、物語の理解を助け、教室の空気をひとつにする役割を引き受けていたと言えます。
一方、額装されて暮らしの空間に置かれた絵が引き受けるのは、もう少し静かな働きだと考えられます。毎日通る廊下、玄関の壁、子ども部屋の入り口。そうした場所に置かれた一枚は、誰かに理解を迫るのではなく、目が行くたびに小さな変化を与えます。朝はあの青、夜の灯りでは別の深さ。同じ絵でも、見る時刻や置かれた壁の色によって受け取られ方が揺れ動くのは、版画という実物ならではだと感じます。画面上の再現画像と違い、紙の質感やインクの乗りは人の目の前でしか伝わりません。
教室という「共有の場」から、家という「日々を重ねる場」へ。置かれる場所が変われば、絵の引き受け方も変わる。けれど失われるものはないのではないでしょうか。むしろ、何年も同じ壁で過ごすうちに、絵は家族の記憶と滲み合っていく気がします。引っ越しの日に梱包される絵を、子どもが覚えているように。教科書で出会った絵が、いつの間にか「自分たちの家の絵」へと変わっていく——それが、暮らしに置かれた絵が静かに引き受ける仕事なのだと思います。提案ですが、一枚を選ぶときは「どこに掛けるか」よりも「どの瞬間に見返したいか」から考えてみると、選び方が変わるかもしれません。

版を重ねるように — 作品と読者の距離が変わるとき
絵本の原画は、基本的に一冊の本の中で完結しています。何万部と刷られても、ページの上の絵は複製であり、読者はみな同じ絵を見ている——そう思っていました。ところが版画という形式を考えると、話は少し変わってきます。版画はもともと、一枚の版から複数の作品を刷り出すことを前提とした表現です。つまり「複数あること」は欠点ではなく、その表現の根っこにあるのです。
これは考えてみると不思議な性質です。原画がひとつしかない場合、その作品に触れられる人は限られ、多くの人は複製を通してしか出会えません。ところが版画の場合、刷り出されたそれぞれが「作品」でありながら、同じ版から生まれた仲間でもあります。持っている人が違っても、それは同じ絵の別々の実体として、各自の手元に存在しています。作品と人のあいだに「原画か複製か」という断絶を挟まず、いくつもの版が並んで立つことで、距離が別のようすを持つようになる——そう言えるのではないでしょうか。
『スイミー』を教科書で読んだ人にとって、あの小さな黒い魚は「みんなの絵」でした。同じ教室の隣の席の友だちも、遠くの誰かも、同じページを見ていたはずです。一方で、額装された版画として家に迎えるとき、それは「自分の絵」になります。同じ絵でありながら、みんなのものから自分のものへ。この二重性を、版という形式は静かに引き受けてくれるように思います。
ひとつの絵がいくつもの版として、いくつもの家に渡っていく。そのたびに、人との距離がそれぞれの在り方で少しずつ結び直されていきます。版を重ねるという言葉には、そんな距離の重なりも含まれているように見えるのです。
『芸術って何だろ?』編集部