← Back to Home
サイファー ·

サイファーキャット英雄列伝(其の二)

サイファーキャット英雄列伝(其の二)

サイファーキャット英雄列伝(其の二)

出典: note.com / 2026-01-20

ハル・フィニーの巻

──最初の送金を受けた男を、吾輩は静かに見守る

吾輩は猫である。名前はまだない。主人はこの頃、また例の小箱を開いては、遠い国の、遠い時代の話を拾い集めている。吾輩はその傍らで、毛繕いをしながら耳だけは立てている。猫というものは、興味のないふりをして、実は何でも聞いているものである。

今宵、主人が熱心に調べているのは、ハル・フィニーという男だ。  聞けば、この男は暗号という魔法のような技術を操る達人で、しかも世界で最初にビットコインなるものを受け取った人物だという。吾輩には金銭の価値など分からぬが、人間どもは「最初」というものに妙な執着を示すから、さぞや偉大なことなのだろう。

主人の画面には、穏やかな笑みを浮かべた白髪の男が映っている。眼鏡の奥の瞳は優しく、とても戦士には見えない。だが主人によれば、この男こそが暗号という見えぬ武器で、人類の自由のために戦い続けた騎士だという。

吾輩は猫であるから、騎士道など知らぬ。しかし、この男の生き様には、猫にも分かる何かがある。

フィニーという男は、若き日からプライバシーという概念に執着していたらしい。人間どもは互いに監視し合い、秘密を暴き合うことを好む生き物だが、この男は違った。「人は見られずに生きる権利がある」と考え、その実現のために暗号技術を磨いたという。

吾輩に言わせれば、これは至極当然のことである。猫は誰にも見られぬ場所で昼寝をし、誰にも知られぬ道を歩く。それが自由というものだ。人間どももようやくそれに気づき始めたのかと思うと、少しばかり賢くなったものだと感心する。

ところが、である。  主人の話は、ここから奇妙な展開を見せる。

このフィニーという男、ある日突然、体が動かなくなる病に侵されたという。ALS——筋萎縮性側索硬化症。吾輩のような四足歩行の獣には想像もつかぬが、人間にとっては恐ろしい病らしい。指先から始まり、やがて全身が石のように固まっていく。

普通の人間ならば、ここで絶望するところであろう。  だが、フィニーは違った。

主人が見せてくれた記録によれば、この男は体が動かなくなってもなお、目の動きだけでコンピュータを操り、暗号の研究を続けたという。ベッドに横たわったまま、瞬きでプログラムを書き、世界中の仲間たちと議論を交わした。

吾輩はその話を聞いて、しばし毛繕いの手を止めた。

猫は自由に動けなくなれば、それでおしまいである。屋根を駆け、塀を飛び越え、気ままに歩くことこそが猫の本質だ。だが人間は違う。体が動かずとも、思考は自由に羽ばたく。この男は、肉体という檻に閉じ込められながら、精神だけは誰よりも自由に世界を駆け巡ったのだ。

主人はフィニーの最後のメッセージを読み上げた。  「私は幸運な人生を送った」

吾輩は主人の膝に飛び乗り、画面を見つめた。  そこには、家族に囲まれたフィニーの写真があった。体は動かぬが、目は生きている。笑っている。

人間というものは、まことに不思議な生き物である。  自由を求めて暗号を作り、体の自由を奪われても心は自由を保つ。

吾輩には難しい理屈は分からぬ。  しかし、この男が最期まで守ろうとした「自由」というものが、ただの言葉ではなく、生き方そのものであったことだけは、猫の吾輩にも理解できる。

主人は画面を閉じ、深く息をついた。  吾輩は主人の膝の上で丸くなり、目を閉じる。

暗号の英雄とは、つまるところ、  「誰にも奪えぬものを守り抜いた者」  のことを言うのだろう。

そして吾輩は、今宵もまた一つ、人間という生き物の奥深さを知ったのである。

さて、主人はまた明日も、別の英雄の話を聞かせてくれるだろう。  吾輩は猫である。ただ見て、聞いて、記すのみ。

(続く)

【猫の脚註】

ハル・フィニーは2014年8月28日、ALSのため58歳で逝去。その遺体は冷凍保存されている。人間どもは死してなお、未来への希望を捨てぬらしい。吾輩には理解できぬが、それもまた自由の一形態かもしれぬ。


この記事は note.com から KTBLOG に移行されました。元記事: https://note.com/famous_prawn2009/n/n4046ba187152