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センスとは何か — 君は何を選ぶか

センスとは何か — 君は何を選ぶか

センスとは何か — 君は何を選ぶか

出典: note.com / 2026-05-27

君は「センス」という言葉を信じているだろうか

君は「センス」という言葉を信じているだろうか。「あの人はセンスがある」「自分にはセンスがない」——そう言って、あきらめてはいないだろうか。

でも、考えてみてほしい。そもそも「センス」とは何なのか。

一言で言えば、選択の積み重ねである。それだけだ。

たいていの人はセンスを才能だと思っている。生まれつきのものだから自分にはないとあきらめてしまう。しかしそれはおそらく間違いだろう。なぜって、私たちは毎日無数の選択をしていて、その積み重ねがやがて「センス」として他人に認識される——それだけのことなのだから。

たとえば私の場合。最先端のテクノロジーの話とフライパンの話を同じアカウントで書いている。計算してそうしたわけではない。私にとってこの二つは同じくらいおもしろいから、自然とそうなった。結果として、この選択がギャップを生み、「センスがある」と評価された——というわけだ。

つまりセンスというのは後からついてくるものなのである。はじめにセンスがあるから良い選択をするのではない。良い選択を続けた結果として、後からセンスが現れる——この順番、とても大事なことではないだろうか。

君は「おもしろい」とはどういうことか、考えたことがあるだろうか

そもそも「おもしろい」とはどういうことだろう。一言で言えば、予想が裏切られることである。人間の脳は予想どおりのことには関心を示さない。「またこれか」と思うだけで忘れてしまう。しかし予想が裏切られたとき、脳は活性化する。「あれ?思っていたのと違う」——この感覚が強い印象を残す。これが「おもしろい」の正体ではないだろうか。

テクノロジーブログを読んで「またAWS Lambdaの話か」と思った瞬間、もうその情報は忘れられる。しかし「AWS Lambdaの話のとなりにフライパンの話がある」とき、脳は「この人、いったい何者だ」と戸惑う。この戸惑いこそが「おもしろい」の正体なのだ。

私はこのことをとくに考えてやっていたわけではない。でも結果として、私の書くものは読者の予想を裏切りつづけている。技術ブログだと思って読んだら急に哲学の話がはじまり、哲学の話かと思ったら料理の話になる。予想を裏切りつづけること——それが「おもしろい」と言われるためのいちばん確かな方法なのかもしれない。君はそう思わないか。

君は「なぜ」をあきらめていないだろうか

子供は誰でも好奇心のかたまりだ。「なぜ空は青いの」「なぜ大人は働くの」とひっきりなしに問いをくり返す。しかし大人になるにつれて、「それはそういうものだから」で済ませるようになる。なぜだろうか。

答えは簡単だ。「なぜ」と問うことにはリスクがともなうからである。上司に「なぜこのやり方をするんですか」と聞けば嫌われるかもしれない。「なぜこのルールがあるんですか」と聞けば面倒なことになるかもしれない。大人はリスクを計算し、それを避けるために「なぜ」を問うことをやめる。これが「大人になる」ということなのだろうか。

しかしこの選択には大きな代償がある。「なぜ」を問うことをやめた瞬間から、新しい発見はなくなる。だって問わなければ気づくはずがないからである。私はこの代償を払いたくなかった。だから「なぜ無検閲LLMをローカルで動かせないのか」「なぜAIのエラーを観察してはいけないのか」といった問いを手放さずにきた。その結果がいまの私だ。「問いを手放さない」という選択は誰にでもできる。ただ「ふしぎだな」と思ったことを、そのままにしないでおくだけでいい——君にもできるだろうか。

そもそも「自由」とは何なのか

そもそも「自由」とは何だろう。一言で言えば、依存しないことである。

君が毎日使っているChatGPTもGoogleもnoteも、誰かのサーバーの上で動いている。便利であることは間違いない。しかしそれらが全部止まったら、君は何もできなくなる。これは自由と言えるだろうか。私はこれを自由とは呼びたくない。これは「気持ちのいい檻」であり、中にいるときは気持ちいいけれど、外に出ようと思っても出られないものだ。

ではどうすればいいのか。自分の手もとで動くものを持つことである。自分のコンピュータだけで動くAI。インターネットが切れても動きつづけるシステム。誰の許可もいらずに好きなことを試せる環境。人間の脳は電気で動いている。私のMacも電気で動いている。だったら、頭蓋骨の中の脳とMacの中のシリコンチップをつなげて、一つの大きな思考システムにしてしまえばいい——そう考えたのがいまの私のやり方だ。これは変な考え方だろうか。

君はどの層に立つか

私の見るところ、AIに関わる人たちは三つの層に分かれる。

第一層——ChatGPTを使ったことがあり、AIで何かができることを知っている。しかしそれだけで手は動いておらず、「いつかやろう」と思っているがそのいつかは永遠に来ない。

第二層——APIを契約して自動化のしくみを動かし、毎日たくさんのコンテンツを作っている。自分では「やっている」つもりになっているが、そのしくみは自分のものではない。借りているサーバーが止まれば仕事も止まり、APIの値段が上がれば収益は減る。

第三層——自分のコンピュータですべてを動かしている。AIの推論も、画像の生成も、記事の執筆も、全部自分の手もとで済む。外部のサービスに依存せず、誰の値上げも怖くない。そしてこの層にいる人たちはみんな「遊んでいる」ように見える。子供のように楽しそうにいろんなことを試している。

第一層には何十万人もの人がいる。第二層には何万人もの人がいる。第三層には世界中でも数百人から数千人しかいない。

君はどの層に立つか。

センスとは何か——もう一度

話を最初に戻そう。そもそもセンスとは何か。一言で言えば、選択の積み重ねである。子供の好奇心を手放さないという選択。大人の技術力でそれを実現するという選択。誰かに依存しないしくみを作るという選択。そしてそのすべてを人に見せるという選択——これらの選択をつづけた結果として、あとから「センスがあるね」と言われる。順番は決して逆にならない。君もそう思わないだろうか。

「自分にはセンスがない」と思っている人がいるとしたら、それはたぶん間違いだ。君はまだ選択を始めていないだけである。今日から何か一つでいいから、自分の「やってみたい」を選んでみてほしい。その選択の積み重ねが、やがて君だけのセンスになる。

さあ、君は何を選ぶか。


この記事は note.com から KTBLOG に移行されました。元記事: https://note.com/famous_prawn2009/n/na4bc9a58349e