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四二零物語

四二零物語

四二零物語

出典: note.com / 2026-01-18

序章

刑務所を出る朝というものは、どこか世間とは時間の流れが違っている。門の外には、家族に迎えられた男たちが、晴れた日の校庭に解き放たれた子どものように見えた。泣き笑い、肩を抱き合い、妙に温かい。まるで幼稚園のお迎えを眺めているような光景である。  あの雰囲気をつくったのは誰かと考えると、どうも日本という国の“演出”のように思えてならない。罪を終えた者には優しく、しかし同時に「しばらく静かにしていなさいよ」と暗に告げるような、柔らかな圧がそこにはあった。

私の前には、父が立っていた。遠く鶴橋から近鉄特急に乗って来たらしい。大きな体を少し縮こませ、言葉もなく、それでいてすべてを受け止めたような顔で「行くぞ」とだけ言った。その背中を追いながら、私は何と返せばよいのか、胸の内で言葉を探していた。

帰りの近鉄は、妙に静かだった。外の景色は変わらないのに、自分がどこか別の国にでも立っているような気分だった。男性のパンツのLINEが変わっててなんかみんな靴下履いてなくて、裾が短くて、足首を出しているのを、いささか滑稽に感じたのを覚えている。あたり前ではない暮らしを当たり前の顔で生活している人々。所謂娑婆という世界が愛おしく空々しく感じた。

出所後は「仮釈」という名の、こまごまとした手続きが多い。優しい声で案内されるが、その優しさの奥には、国家というものの視線がひっそり潜んでいる。あれは不思議なもので、怒られているわけでもないのに、背筋が伸びる。

家に戻ると、家族は驚くほど柔らかかった。柔らかいからこそ、傷ついた影も濃く見える。私のしたことは、決して彼らにとって「過ぎたこと」ではないのだ。私の人生の揺れは、そのまま彼らの揺れでもあった。

私は長いこと、自分の世界の中で生きてきた。大麻がどう扱われるべきか、法律がどれほど歪んでいるか、自然と人との関係がどうあるべきか。自分の内側の理屈を基準にしていた。それが自然で、息をするのと同じくらい無意識のことだった。

世間の人から見れば「ずれている」と言われるだろう。しかし、私からすれば逆に、世間のほうが不思議に見える。どちらが正しく、どちらが誤っているという話ではない。人は皆、自分の世界を持ち、それを正しいと思い込むものである。

けれども、その世界を押し通した結果、家族を苦しませたのもまた事実であった。彼らの痛みは、私自身の痛みより深かった。だからこそ、私は考えた。自分はこれからどう生きるのかと。

自分を曲げて“正しいふり”をするのか。  あるいは、世界のほうが歪んでいるのなら、その歪みをまっすぐ見つめる側に立つのか。

私は後者を選んだ。  正義に合わせて自分を変えるのではなく、誤りをそのまま見つめて、少しでも正すほうへ歩く道を選んだ。

家族のためであり、自分のためであり、引き返すには少し遅すぎたという事情もあったのだが、いずれにせよその日から風向きが変わった。  これが、私の 「420物語」 の第一歩である。


この記事は note.com から KTBLOG に移行されました。元記事: https://note.com/famous_prawn2009/n/ndb30f8e35dcd