← Back to Home
note.com ·

壁とその向こう側 第1話: 飴色の背表紙

壁とその向こう側 第1話: 飴色の背表紙

壁とその向こう側 第1話: 飴色の背表紙

出典: note.com / 2026-05-28

eyecatch

壁とその向こう側 第1話: 飴色の背表紙

壁についてのいくつかの考察から、この物語は始まる。

壁とは何か。そも、壁というものは、ある種の境界線である。内と外を分ける。許されることと許されないことを分ける。見えるものと見えないものを分ける。しかし、その境界線は必ずしも目に見える形をとるとは限らない。

僕が最初に壁と向き合ったのは、施設の中だった。コンクリートで囲まれた部屋。四角い空間。天井近くに一つだけある小さな窓からは、かろうじて空の色が覗けた。それだけだ。

施設の壁は分厚かった。冬は冷たく、夏は結露で湿っていた。壁に耳を当てると、建物全体が呼吸しているような微かな音が聞こえた。空気が通り道を求めて壁の中を循環しているのだ。コンクリートの隙間を伝わる振動が、かすかに指先に響く。その感覚が、なぜか僕を落ち着かせた。

夜になると、廊下の蛍光灯が低い唸りを立てた。あの音を言葉で説明するのは難しい。まるで蜂の大群が壁の向こうで休んでいるような、そんな音だった。僕はいつもその唸りを聞きながら眠りについた。

施設には図書室と呼べるような部屋があった。ただし、そこにあったのは百冊に満たない本だけだ。多くは寄付されたものらしく、統一感のない背表紙が並んでいた。百科事典の一部。古びた小説。誰かが置いていった週刊誌。

その中で、一冊だけが異質だった。背表紙が飴色に変色した、小さな文庫本だった。他の本よりずっと古く、何度も読まれた痕跡があった。ページの端は茶色く焼け、触ると指に微かな粉がついた。まるで枯れ葉を触っているかのようだった。

タイトルは『14歳からの哲学』。著者の名前は、当時の僕には知らないものだった。

その本を初めて手に取ったのは、施設に入って三ヶ月が過ぎた冬の夜だった。暖房の効きの悪い図書室で、僕は壁に背を預けて座った。コンクリートの冷たさが背中越しに伝わってくる。僕はページを開いた。

最初の一文はこうだった。

「哲学とは、みんながやっていることを、みんながやっていると自覚するだけの行為である」

僕はその言葉に何かが引っかかるのを感じた。まるで服のほつれがどこかに引っかかった時のような、そんな感覚だった。説明はできなかったが、その感覚は確かにそこにあった。

その本は、世界の見方を変えるための道具だった。いや、道具というよりは、むしろ地図だった。自分が今どこにいるのかを教えてくれる地図。そして、どこへ行けるのかをほのかに示す地図。

「そも、なぜ人は壁を作るのか」と、その本は問いかけた。「壁は外敵から身を守るためにある。しかし、壁は同時に中にいる者を閉じ込める。壁の本質は防御か、それとも監禁か」

その問いは、施設のコンクリートの壁を別の角度から見ることを僕に教えた。壁は外の世界から僕を守っていたのか。それとも、壁は僕を閉じ込めていたのか。その答えは、その時はまだわからなかった。

施設には猫が住み着いていた。三毛の雌猫で、誰が名付けたのか「タマ」と呼ばれていた。タマは図書室の隅にある古いソファの上でよく眠っていた。昼間はほとんど動かず、夜になるとどこかへ出かけて行った。

ある晩、僕が『14歳からの哲学』を読んでいると、タマが静かに近づいてきて、僕の膝の上に乗った。その重みは驚くほどしっかりしていた。猫の体温が太ももに伝わる。タマは目を閉じて、ゴロゴロと喉を鳴らした。その振動が本を持つ手にも伝わってきた。

「お前も壁について考えるのか」と僕はタマに話しかけた。

タマは答えなかった。しかし、その存在がなぜか心強かった。

僕は毎晩、図書室でその本を読んだ。壁に背を預け、飴色のページをめくる。内容は最初は難しく感じられたが、何度も読むうちに、言葉の一つ一つが自分の内部に染み込んでいくのを感じた。まるで乾いた砂に水が染み込むように。

「哲学とは、当たり前を当たり前でなくする作業である」

その言葉を読んだ時、僕はハッとした。施設の生活があまりに「当たり前」になっていたことに気づいたからだ。決まった時間に起きる。決まった時間に食事をとる。決まった時間に眠る。その繰り返し。その中で、壁もまた「当たり前」になっていた。

しかし、壁は当たり前ではない。何かがおかしい。

そう思った時、施設の壁の重みがほんの少し軽くなったような気がした。実際に壁が動いたわけではない。しかし、僕の中で何かが変わった。壁を意識しなくなったのではなく、壁を「壁として認識する」こと自体を意識するようになったのだ。

それが、僕の小さな自由の始まりだった。

タマはその夜も僕の膝の上で眠っていた。蛍光灯の唸りが遠くで聞こえる。ページをめくる音だけが、静かな図書室に響いていた。

(第1話 了|続く)


この記事は note.com から KTBLOG に移行されました。元記事: https://note.com/famous_prawn2009/n/n2b6743da9ece