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壁とその向こう側 第2話: 壁の向こう側

壁とその向こう側 第2話: 壁の向こう側

壁とその向こう側 第2話: 壁の向こう側

出典: note.com / 2026-05-28

出所の日、門の外で最初に感じたのは空気の重さだった。

施設の中の空気はいつも同じ温度で、同じ匂いだった。何年も動かされていない古いソファのような、落ち着きすぎた静けさがあった。しかし外の空気は違った。春の終わりの湿気を含んでいて、土の匂いと草の匂いと、どこか遠くの道路から運ばれてくる排気ガスの匂いが混ざり合っていた。それらの匂いは秩序なく押し寄せてきて、僕の鼻腔を満たした。まるで長い間閉め切っていた部屋の窓を突然開けた時のように、空気が一気に入り込んでくる。

陽光が眩しかった。

施設の中の蛍光灯は一日中ついていたが、あれは擬似の光だった。本物の太陽の光は、もっと暴力的だった。皮膚に当たると熱を持つ。まぶたを閉じても、網膜の裏側まで赤い光が染み込んでくる。僕はしばらく門の前で立ちすくんで、その光に目を慣らそうとした。影というものが、こんなに濃くて、くっきりとしているものだとは忘れていた。地面に落ちた自分の影を見るのも、久しぶりのことだった。

門の前の道路は舗装されていて、アスファルトの表面はところどころひび割れていた。そのひび割れの隙間からは、雑草が顔を出していた。雑草の緑は鮮やかで、まるでそこだけ時間の流れが違うかのようだった。アスファルトの黒と、雑草の緑のコントラストが、やけに目に焼きついた。

振り返ると、施設の建物が見えた。コンクリートの壁は白く塗られていたが、その白さも外から見ると違って見えた。中にいた時はあれが世界の全てだと思っていた。しかし外から見ると、ただの古い建物だった。壁は思ったより低く、窓は小さかった。あの中に自分がいたのだと思うと、奇妙な気分になった。まるで水槽の中から外を眺めていた魚が、突然水槽の外に出されたような、そんな感覚だった。

門のところで、一人の男が立っていた。スーツを着た、四十代くらいの男だった。彼は僕に書類の束を渡した。退院証明書と、更生保護施設の紹介状だった。

「これからの生活については、書類に書いてある通りです」と彼は言った。「何かあれば連絡してください」

「ありがとうございます」と僕は言った。

彼はそれ以上何も言わず、車に乗って去っていった。排気ガスの匂いが一瞬立ちこめて、すぐに風に流された。誰も見送りに来なかった。タマもいなかった。猫というのは、別れの場面を嫌う生き物だ。

僕は歩き始めた。行くあては特に決まっていなかった。更生保護施設には三日后に報告すればよかった。それまでの三日間、僕は自由だった。施設の中では考えられないことだった。三日間、誰にも監視されず、どこに行くこともできる。その自由が、逆に重く感じられた。広すぎる海に放り出された小魚のように、どこへ泳いでいけばいいのかわからなかった。

街に出た。

駅前の広場にはたくさんの人がいた。スーツを着たサラリーマン、学生、ベビーカーを押す母親、犬を連れた老人。それぞれがそれぞれの目的を持って歩いている。その流れに、僕はただ飲み込まれた。誰も僕のことなど気に留めない。それは自由であり、同時に孤独だった。施設の中では、少なくとも自分の居場所が決まっていた。廊下のどの辺りを歩くか、図書室のどの席に座るか、すべてに意味があった。しかし外の世界では、どこにいてもいいということは、どこにもいなくてもいいということだった。

信号待ちをしている時、あることに気づいた。僕の周りの人たちは、誰もがスマートフォンを見ている。電車を待つ間も、歩きながらも、カフェの窓際でも。彼らは小さな画面の中の世界を見ていて、目の前の現実を見ていない。それぞれが自分だけの小さな箱の中に閉じこもっている。それが外の世界の普通らしかった。

これは新しい壁かもしれない、と僕は思った。

施設のコンクリートの壁は、目に見える壁だった。しかし外の世界の壁は目に見えない。人々は見えない壁に囲まれて、それに気づかずに生きている。あるいは、気づかないふりをしている。スマートフォンの画面も、建前というルールも、お金の仕組みも——それらはみんな、見えない壁だった。壁はコンクリートだけではない。もっと柔らかくて、もっと巧妙な素材でできている。

そも、なぜ人は壁を作るのか。あの飴色の本の問いが、頭の中で蘇った。

──

彼女に出会ったのは、小さなジャズバーだった。

二日目の夜だった。一日中街を歩いて、足の裏が痛くなっていた。施設の中では一日の大半を座って過ごしていたから、久しぶりの長距離歩行に身体が悲鳴を上げていた。ふと見つけた地下の店だった。看板には「Swing Time」と書いてあった。階段を下りると、薄暗い照明と、古びた木のカウンターがあった。店内には五、六人の客がいたが、それぞれがそれぞれの酒を静かに飲んでいた。壁には黒いフレームのジョン・コルトレーンの写真が掛かっていた。

カウンターの隅に腰掛けて、ホットコーヒーを頼んだ。アルコールはまだ早い気がした。コーヒーカップの温かさが手のひらに伝わってくる。施設の図書室で読んでいた夜を思い出した。あの時も、カップの温かさが手のひらに伝わってきた。しかしあの時は陶器のカップではなく、安物のプラスチックカップだった。その違いが、なんだか切なかった。

スピーカーから流れていたのは、ビル・エヴァンスの「Waltz for Debby」だった。ピアノの音が、店内の薄暗い空気に溶け込んでいく。ベースの低い音が、カウンターの木目を通じて肘に響いてきた。まるで音が形を持っていて、店内の空間をゆっくりと満たしていくかのようだった。僕はその音に耳を澄ませた。施設の中には音楽らしい音楽はなかった。蛍光灯の唸りと、誰かの足音と、時計の針の音——それだけだった。本物の音楽を聴くのは、何年ぶりだろう。

「ここ、初めてですか」

声がして顔を上げると、隣の席に女の人が座っていた。いつの間にか来ていたらしい。気配がまったくしなかった。彼女は三十歳くらいだろうか。地味なグレーのセーターを着て、髪は後ろで一つに束ねていた。化粧っ気はほとんどなかった。しかし、その耳が美しかった。耳の形が整っていて、柔らかな曲線を描いていた。照明の光が耳の縁をかすかに照らしていて、そこだけが別の時間の中にあるように見えた。耳介の陰影が、まるで貝殻の内側のように繊細だった。

「はい」と僕は言った。「今日、初めてです」

「看板を見つけるのが難しいでしょう。ここ」と彼女は言った。「私も最初は三回通り過ぎました」

彼女は店の常連らしかった。マスターに軽く手を上げると、マスターは黙ってジントニックを作り始めた。慣れた手つきだった。氷がグラスの中でカラカラと鳴った。

「外を歩いていて、何か考えてるみたいでしたね」と彼女は言った。

「そんなに見えましたか」

「見えました。誰かと何かを探しているような顔」

僕はコーヒーを一口飲んだ。苦かった。久しぶりのちゃんとしたコーヒーの味だった。施設のコーヒーはいつも薄くて、ぬるかった。

「壁について考えていました」と僕は言った。

「壁?」

「見えない壁です」

彼女は少し首を傾げた。その動きに合わせて、彼女の耳が微かに動いた。光の反射が変わった。

「例えばどんな壁」と彼女は言った。

「アルゴリズムの壁とか、建前の壁とか、お金の壁とか」と僕は言った。「人と人の間にあって、でも見えない壁です」

彼女はしばらく黙っていた。ジントニックのグラスを手に取り、氷を見つめていた。グラスの表面に水滴が浮かんで、それがゆっくりとカウンターの上に落ちた。

「私もそれ、見たことがある」と彼女は言った。

その言葉は、予想外だった。外の世界で、壁の話をしたのは初めてだった。誰も壁のことなんて気にしていないと思っていた。しかし彼女は違った。

「どこで」と僕は訊いた。

「いろんなところ。でも、一番はっきり見えたのは——」彼女はグラスを置いた。「前に勤めていた会社で」

彼女は語り始めた。大手のIT企業で働いていた時の話だった。彼女はシステムエンジニアだった。毎日十二時間以上働いた。同僚たちは皆優秀で、親切だった。しかし、ある日気づいたのだという。

「自分が作っているシステムが、誰かの自由を奪っていることに」

「どんなふうに」と僕は訊いた。

「例えば、クレジットスコアのシステムです。あなたがどの店で何を買ったか、いつ家賃を払ったか、誰と連絡を取っているか——それらをすべて数字に変換する。その数字で、あなたの人生の選択肢が決まる。家を借りられるか、ローンが組めるか、保険に入れるか。そのシステムを作っている時、私は壁を作っているんだと思ったんです。見えない壁を」

僕はその話を聞きながら、飴色の本のことを思い出していた。壁の向こう側を想像すること。それが自由の始まりだというあの言葉。

「システムを辞めたあと、いろいろ調べました」と彼女は言った。「そしたら、同じように壁を見ている人が結構いることがわかったんです。学者もいれば、活動家もいる。でも一番面白いのは——資本お化けと呼ばれている存在のことです」

「資本お化け」

「正式な名前じゃないです。でも、そう呼んでいる人たちがいるんです。資本そのものが、まるで生き物のように振る舞っているように見える——そういう話です。お金は本来ただの道具のはずなのに、いつの間にか資本が資本を生み出すシステムができていて、そのシステムが人間を動かしている。誰もそれをコントロールできていない。まるで、目に見えない大きな壁が私たちの周りに張り巡らされていて、私たちはその中を自由に動いているつもりでいるだけだ、と」

彼女の言葉は、僕の中の何かと響き合った。施設では、壁はコンクリートでできていた。しかし外の世界では、壁はもっと抽象的な形を取っていた。法制度。経済システム。社会的なルール。アルゴリズム。それらはすべて、誰かが作った壁だった。しかし、その誰かもまた、別の壁の中に閉じ込められている。壁が壁を生み、その連鎖がどこまでも続いている。まるでロシアの人形のようだ、と思った。

「その壁の正体を、一緒に調べてみませんか」と僕は言った。

彼女は少し驚いた顔をした。そして、ほんの少しだけ微笑んだ。その微笑みは、ジントニックのグラスの向こう側で、まるで水に落ちたインクのようにゆっくりと広がっていった。

「あなたは、壁を見たことがある人なんですね」と彼女は言った。

「施設の中にいたので」と僕は言った。「本物の壁がどんなものか、よく知っています」

彼女はうなずいた。

「いいですよ」と彼女は言った。「私も、一人で調べるのに疲れていたところです」

ビル・エヴァンスのピアノが、次の曲に移った。「My Foolish Heart」だった。ゆっくりとしたテンポのバラードで、ピアノの音が一つ一つ、丁寧に空気を震わせていた。ベースの音が低く響き、カウンターの木目が微かに振動した。その振動は、まるで壁の奥から聞こえてくる声のようだった。

「壁の正体を突き止めたいんです」と僕は言った。「なぜ壁ができたのか。誰が作ったのか。そして——壁の向こう側には、何があるのか」

彼女はグラスを掲げた。氷がカランと音を立てた。

「まずは手始めに、この街の壁を見に行きましょう」と彼女は言った。「明日、駅の東口で」

「何時に」と僕は訊いた。

「午前十時。壁が一番はっきり見える時間です」

そう言って、彼女は席を立った。グレーのセーターの裾が、カウンターのスツールに引っかかって、一瞬だけその形を変えた。彼女はマスターに金を置いて、振り返らずに階段を上がっていった。彼女の耳が、最後の一瞬だけ、薄暗い照明の中で輝いたように見えた。

店内にはまだビル・エヴァンスが流れていた。コルトレーンの写真が、暗がりの中でじっとこちらを見つめていた。壁の向こう側には、まだ見たことのない夜が広がっている。しかし、もしかしたら——その夜の中にこそ、答えがあるのかもしれない。そう思った。

(第2話 了|第3話へ続く)


この記事は note.com から KTBLOG に移行されました。元記事: https://note.com/famous_prawn2009/n/n56eb03067d60