壁とその向こう側 第3話: 博物館の夜
壁とその向こう側 第3話: 博物館の夜
出典: note.com / 2026-05-28
壁とその向こう側 第3話: 博物館の夜

耳の美しい女性と僕は、タクシーを降りた。
そこにはKT人物博物館があった。
建物は古い洋館だった。まるで誰かが西洋から持ってきた箱をそのまま置いたみたいに見えた。外壁には蔦が這っていて、玄関の上の電灯は一つが切れていた。もう一つの電灯も、まるで風邪を引いたみたいに弱々しく光っていた。夜の空気は冷たくて、僕はコートの襟を立てた。吐く息が白くなった。
「ここだ」と彼女は言った。
彼女は今日も紺色のワンピースを着ていた。耳が月明かりに透けて、まるで貝殻みたいに見えた。触れたら冷たいんだろうな、と思った。
「中に入るの?」と僕は訊いた。
「もう入っているようなものよ」と彼女は言った。
玄関の扉は開いていた。鍵はかかっていなかった。まるで僕たちを待っていたみたいだった。
中に入ると、冷房の匂いがした。あの、古い図書館とか公民館で嗅ぐ匂いだ。床は磨き込まれた木板で、歩くたびに軋んだ。天井は高くて、シャンデリアがぶら下がっていたが、電気はついていなかった。薄暗い非常灯だけが、廊下をぼんやりと照らしていた。
「誰もいないね」と僕は言った。
「誰もいないわけじゃない」と彼女は言った。
彼女の言葉の意味は、すぐにわかった。
ロビーには大きな展示ケースが並んでいた。ケースの中にはフィギュアが立っている。等身大の人間が、まるで蝋人形のように固まっていた。しかしそれは蝋ではなくて、プラスチックか何かの素材だった。表面は滑らかで、継ぎ目がなかった。まるで本物の人間をそのまま固めたみたいだった。目はガラスでできていて、どのフィギュアもこっちを見ていた。どの目も、何かを知っているみたいに見えた。
最初のケースの前で、僕は足を止めた。
そこには読者がいた。
檻の中に、一人の男が座っている。その男は僕だった。いや、僕そっくりのフィギュアだった。眼鏡をかけていて、スマートフォンを手に持っている。姿勢は丸まっていて、まるで寒さに縮こまっているみたいだった。檻の外には真鍮の札があって、こう書いてあった。
「檻の中の読者」
僕はしばらくそのフィギュアを見つめた。フィギュアの僕は、まるで何かに怯えているような表情をしていた。スマホの画面を凝視して、口が半開きになっている。画面には何か文字が表示されていた。近づいて見ると、それはさっきまで僕が読んでいた記事と同じものだった。
さっきまで、僕がスマホで見ていたあの記事。それがフィギュアの手の中にもあった。
「これ、僕だ」
「そうね」と彼女は言った。
「どうして僕がここに展示されてるんだろう」
「それはこれからわかることよ」
彼女は先に進んだ。背筋がまっすぐで、歩くときにかかとが床に触れる音が、規則正しく響いた。僕も後に続いた。床の軋みが、僕の体重を訴えるみたいにギシギシと鳴った。
次の展示ケースには、資本お化けがいた。
それは人の形をしていなかった。まるで黒い煙が固まったみたいな塊だった。ところどころに人間の顔が浮かんでいる。顔はみんな苦しそうだった。口を開けて、何か叫ぼうとしているみたいだった。でも音は出なかった。資本お化けの周りには、札束や数字が散らばっていた。床にも壁にも、数字が張り付いていた。説明文にはこう書いてあった。
「資本お化け——人の弱みで儲けるアルゴリズム」
「なるほどね」と僕は言った。
「わかる?」と彼女が訊いた。
「なんとなく」と僕は言った。「みんなが不安だから、お金が動くってこと?」
彼女は何も言わなかった。ただ微笑んだだけだった。
三つ目のケースには、大勢の人々が立っていた。みんなスーツを着ていて、真面目な顔をしていた。でもよく見ると、それぞれのポケットから何かがはみ出している。漫画の切れ端や、DVDのケースや、ラブドールのカタログ。ある人のスーツの裾からは、ピンク色の布が覗いていた。
「建前を守る人々」という札があった。
「エロを愛しながら、隠す社会」と説明にはあった。
僕はそのフィギュアたちの顔を見た。どの顔も、まるで自分が何を見ているか気づいていないふりをしているみたいだった。目はどこか遠くを見ていて、口元は引き締まっていた。でもその緊張は、まるで張り詰めたゴムみたいに、いつ切れてもおかしくなかった。
「なんだか疲れるね」と僕は言った。
「そうね」と彼女は言った。
四つ目のケースでは、ゾンビが歩いていた。
いや、本当にゾンビなのかはわからない。でもそうとしか言いようがなかった。彼らはスマートフォンを掲げて、よろよろと歩いていた。目は虚ろで、指だけが忙しそうに動いている。まるで見えない糸に操られている人形のようだった。スマホの画面は全部違うコンテンツを表示していた。でもどの顔も、同じような表情をしていた。何かに飢えた顔だった。
「インプレゾンビ」
「アルゴリズムに喰われる人々」
「これが一番怖いかもね」と僕は言った。
「そう?」と彼女は首を傾げた。「でもあなたも、さっきまでその仲間だったんじゃない?」
僕は答えられなかった。
五つ目のケースは、最初の四つと少し違っていた。そこにいたのは普通の人々だった。作業着を着た男、エプロンをした女、工具箱を持った老人。誰も有名ではなかった。誰もカメラの前で笑ったりしていなかった。ただ黙々と何かをしていた。一人の女性はミシンを踏んでいた。一人の男は包丁を研いでいた。誰かの目には生気があった。まるで朝日みたいな明るさだった。
「地力の人」
「現場を支える無名人々」
僕はこの展示の前で、一番長く立ち止まった。
「どうしたの?」と彼女が訊いた。
「わからないけど」と僕は言った。「この人たちが、一番壁の近くにいる気がする」
彼女はまた微笑んだ。それが正解だと言うように。
博物館の中は、とにかく静かだった。冷房の音だけが、低く唸っていた。まるで大きな猫が眠っているみたいな音だった。その音が、かすかに音楽に聴こえることもあった。遠くのラジオを思い出させるような、不安定なメロディーが、空調の音に混ざって聞こえた。
「何時だと思う?」と僕は訊いた。
彼女は腕時計を気にする素振りもなく、ただ言った。
「もうすぐよ」
「もうすぐって——」
その時だった。
後ろの方で、何かが鳴った。カチッという乾いた音。まるで機械のスイッチが入ったみたいな音だった。
僕は振り返った。
「檻の中の読者」のフィギュアが、動いていた。
フィギュアの僕が、ゆっくりと顔を上げた。ガラスの目が、暗がりの中で光った。スマホの画面が青白く灯った。その光が、ケースの中の暗がりをぼんやりと照らした。
「あ」と僕は言った。
それだけだった。驚きはしなかった。驚かなかった。ただ、そういうものだと思った。博物館の展示品が夜中に動く。それはよくある話だ。少なくともこの世界では。
フィギュアの僕は、檻の格子を掴んだ。指がプラスチックのまま、ぎこちなく曲がった。まるでロボットが人間の真似をしているみたいだった。関節のない指が、金属の格子に当たってカチカチと音を立てた。
「きみ」とフィギュアの僕が言った。
声はひどく掠れていた。まるで長い間話していなかった人の声だった。
「きみも、檻の中にいるんだよ」
「知ってる」と僕は言った。
「本当に?」
「わからないけど」と僕は言った。「そうなんだろうとは思ってる」
フィギュアの僕は、ガラスの目でじっと僕を見た。その目には、何の感情もなかった。ただ映すだけの、本当のガラスだった。
「そも」とフィギュアが言った。
「え?」
「そもそも、きみはなぜここにいるんだ」
その言葉は、まるで鍵みたいに感じられた。フィギュアが言った「そもそも」——いや、この世界では「そも」だ——が、展示ケースのガラスを震わせた。ガラスが細かく振動して、低い音を立てた。まるで音叉みたいに。
すると、他のフィギュアたちも動き始めた。
資本お化けが、黒い煙を揺らしながら膨らんだ。人の顔が浮かんでは消え、浮かんでは消えた。建前を守る人々が、スーツのまま歩き出した。ポケットから漫画が落ちた。床に落ちた漫画のページが、風もないのにパラパラと捲れた。インプレゾンビたちは、スマホを掲げたまま、まるで一斉にメッセージを受信したみたいに、同じ方向を向いた。指だけが忙しなく動いていた。
「どうやら時間みたいね」と耳の美しい女性が言った。
彼女は全く動じていなかった。まるで毎晩これが起こることを知っているみたいだった。あるいは知っていて、それが当然だと思っているみたいだった。彼女は展示ケースにもたれて、まるで映画でも見るみたいに、フィギュアたちを見ていた。
「これが毎晩?」と僕は訊いた。
「毎晩よ」と彼女は言った。「あなたが壁を越えるまで」
地力の人たちは、動かなかった。彼らだけは、ケースの中でじっと立っていた。でもその目は開いていた。まるで全てを見ているみたいに。
「そも」という言葉が、博物館の中を巡っていた。まるで風みたいに、展示ケースの間をすり抜けて、天井まで届いた。その言葉が耳に触れるたびに、展示品の動きが変わった。
「そも」は問いだ。
「そも」は始まりだ。
資本お化けが、僕の前に来て止まった。その黒い塊から、顔が一つ浮かび上がった。それは僕の友達の顔だった。彼はいつの間にか、株にのめり込んでいた。毎日チャートを見て、一喜一憂していた。彼はもう、僕と普通の話ができなくなっていた。全ての会話が、上がった下がったの話になった。
「そも」と資本お化けは言った。「そもそも、人はなぜ他人の不安で儲けようとするんだ」
建前を守る人々の一人が、僕の袖を引いた。彼はスーツの男だった。同僚か何かに見えた。ネクタイが少し曲がっていた。
「そもそも」と彼は言った。「そもそも、なぜ隠すんだ」
「隠さないと生きていけないからじゃないかな」と僕は言った。
「それは誰が決めたんだ」と彼は訊いた。
「誰かが決めたんだろうね」と僕は言った。「でもその誰かは、もう覚えてない」
インプレゾンビたちが、一斉にスマホを僕に向けた。カメラのライトが眩しかった。まるで尋問みたいだった。
「そもそも」と彼らは呟いた。「そもそも、誰のために見てるんだ」
「わからない」と僕は言った。
「わからない」と彼らも言った。
その声が、博物館全体に響いた。まるで合唱みたいだった。不協和音の合唱。
耳の美しい女性は、中央の展示ケースの前に立っていた。そこは空だった。何も置かれていなかった。ただ、一つの椅子があるだけだった。木製の、背もたれの高い椅子だった。まるで校長室にありそうな椅子だった。
「座って」と彼女は言った。
「僕が?」
「うん」
僕はその椅子に座った。座面は冷たかった。まるでずっと冷やされていたみたいに。冷たさがズボンの生地を通して伝わってきた。
「ここが、最後の展示だ」と彼女は言った。「タイトルは『壁の向こう側を探す人』」
フィギュアたちが、僕の周りに集まった。資本お化け、建前を守る人々、インプレゾンビ、そして檻の中の読者。地力の人たちだけは、離れた場所から見ていた。まるで遠くから応援しているみたいに。
「全ての壁は」と彼女は言った。「一つの問いで繋がっている」
「そも」と僕は言った。
「そう」と彼女は頷いた。「全ての壁の奧にあるのは、『そもそも、これはなぜ必要なんだ』という問いだ。その問いを忘れた時、壁は固くなる。その問いを持ち続けた時、壁は柔らかくなる」
「壁の向こう側に行くには、その問いを持ち続ければいいんだ」
「そうかもしれない」と彼女は言った。「でも、それはまだ誰も確かめたことがない」
フィギュアたちが、元の位置に戻り始めた。まるでミサイルが静まるみたいに、ゆっくりと。インプレゾンビたちはケースに戻り、スマホを掲げたまま固まった。資本お化けは黒い煙を縮めて、展示の中に収まった。建前を守る人々は、落とした漫画を拾い、スーツの埃をはたいて、再び動かなくなった。
「檻の中の読者」のフィギュアだけは、最後まで僕を見ていた。
「また会おう」とフィギュアの僕が言った。
「うん」と僕は言った。
僕は椅子から立ち上がった。座面にはまだほんのりと体温が残っていた。
地力の人たちのケースの前を通りかかった時、一人の老人フィギュアが、かすかに頷いたような気がした。気のせいかもしれない。でも僕は頭を下げ返した。彼らが毎日、現場で壁と戦っていることを、僕は知っている。
「そろそろ出よう」と耳の美しい女性が言った。
「うん」
出口に向かう途中、受付のカウンターの上に一匹の猫がいた。さっきまでいなかった。黒い猫だった。目を閉じて、まるで全てを知っているみたいに眠っていた。お腹がかすかに上下していた。本物の猫だ。少なくとも、そう見えた。
「この猫も展示品?」と僕は訊いた。
「さあ」と彼女は言った。「ただの猫かもしれないし、一番重要な展示品かもしれない」
猫は目を開けた。黄金色の目だった。一瞬だけ、何かを見た。確かに何かを見た。それからまた眠った。まるで「また明日」と言っているみたいに。
博物館を出ると、外は変わらず夜だった。でもさっきよりは少し明るかった。東の空が、ほんのりと白み始めていた。星が出ていた。まるで壁の向こうにも星があることを教えているみたいだった。
「次の場所に行くの?」と僕は訊いた。
「さあね」と彼女は言った。「まずはご飯にしない?」
「いいね」と僕は言った。
「何がいい?」
「カレー」と僕は言った。
彼女は笑った。その笑い声が、夜の街に溶けていった。
壁の向こう側への旅は、まだ続く。でもとりあえず、今夜はカレーが食べたい気分だった。それでいいんだと思う。
第3話 了|最終話へ続く
この記事は note.com から KTBLOG に移行されました。元記事: https://note.com/famous_prawn2009/n/n3bff47204210