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壁とその向こう側 第4話: 地力の時代

壁とその向こう側 第4話: 地力の時代

壁とその向こう側 第4話: 地力の時代

出典: note.com / 2026-05-28

博物館の朝は、静かだった。

昨夜あれほど賑わっていたフィギュアたちは、みな元の位置に戻っている。ガラスケースの中、スポットライトを浴びて、動く気配もなく立っていた。まるで何もなかったかのように。

僕はベンチに座って、その光景を眺めていた。手に持った紙コップのコーヒーは、すでに冷めている。何度か口をつけたが、味はもうほとんどしなかった。

館長(KT)がやってきたのは、そのときだ。

彼女は僕の隣に座ると、同じようにフィギュアたちを見つめた。長い沈黙のあと、彼女は言った。

「壁が消えたわけではない。見え方が変わっただけだ」

僕は彼女の横顔を見た。彼女は微笑んでいた。

「あの夜、君は何かを見ただろう。でもそれは、壁がなくなったからじゃない。君が壁の存在に気づいたからだ。壁はある。これからもずっとある。ただ、それとの付き合い方を、君は学び始めたんだ」

彼女の声は、朝の空気に溶けていくようだった。

「館長は、壁を見たことがあるんですか」

僕の質問に、彼女はしばらく考え込んだ。

「あるよ。一度だけ。でも、それは話せない。話せることと、話せないことがある。それもまた、壁のひとつだ」

僕たちはしばらく、並んで座っていた。冷めたコーヒーを飲みながら、ガラスケースの中のフィギュアたちを眺めていた。

耳の美しい女性との別れは、博物館の入り口でだった。

「また会えるかわからないね」と彼女は言った。

「そうかもしれない」と僕は言った。

彼女は微笑んで、何か言いかけたが、結局何も言わなかった。その代わりに、そっと手を振った。僕も手を振り返した。

彼女が歩き去っていく後ろ姿を、僕はしばらく見つめていた。彼女の耳は、朝の光の中できらめいていた。あの夜、あの展示室で見たものは、たしかにそこにあった。しかし、それを言葉で説明することは、僕にはできなかった。

彼女は角を曲がって見えなくなった。

僕はその場に立ったまま、しばらく動けなかった。

日常に戻った。

電車に乗り、駅前の喫茶店でコーヒーを飲み、図書館で本を読み、スーパーで食材を買う。いつもと同じことの繰り返しだ。しかし、完全には戻れなかった。

何かが変わっていた。

それはたとえば、電車の窓から見えるビルの壁だった。あのコンクリートの壁の向こう側には、何があるのだろう。そう考えるようになった。以前はただ通り過ぎていただけの壁が、急に意味を持ち始めた。

あるいは、本屋で見かけた一冊の本の背表紙。その背表紙もまた、一種の壁なのではないか。中身を見せず、タイトルだけを外に向けて立っている。それは、内側の者を閉じ込め、外側の者を遠ざける、小さな壁だ。

そんなことばかり考えていた。

そもそも壁とは何か。

一言で言えば、内側の者を閉じ込め、外側の者を遠ざけるものだ。なぜか。それが壁の唯一の機能だからだ。形が変わろうと、材質が変わろうと、本質は変わらない。

しかし、あの夜、僕が見たのは、その機能が一時的に停止した瞬間だった。フィギュアたちが壁を越えて動き出した。耳の美しい女性が、僕に見せるはずのなかったものを見せてくれた。

それはなぜか。

たぶん、壁というものは、向こう側を見ようとしなければ、存在しないも同然なのだ。僕たちは普段、壁を意識しない。壁があることすら忘れている。しかし、ある瞬間、ふと壁の存在に気づく。そのとき、壁は初めて「壁」として機能し始める。

逆に言えば、壁の存在に気づいたとき、すでに僕たちは壁の向こう側を垣間見ているのかもしれない。

あのフィギュアたちは、僕に壁の存在を教えてくれた。そして同時に、その向こう側には、何かがあることも教えてくれた。

それが何かは、まだ言葉にできない。でも、それでいいのだと思う。

僕はたぶんこれからも、そのことを忘れずに生きていく。

第4話 了|全4話完結

#小説 #村上春樹スタイル #地力の時代 #哲学 #完結


この記事は note.com から KTBLOG に移行されました。元記事: https://note.com/famous_prawn2009/n/n4a03a3f0cf20