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壁とその向こう側 第4話: 地力の時代

壁とその向こう側 第4話: 地力の時代

壁とその向こう側 第4話: 地力の時代

出典: note.com / 2026-05-28

eyecatch

壁とその向こう側 第4話: 地力の時代

博物館から戻ってから、一週間が経った。

壁は消えなかった。朝起きて、顔を洗い、スーパーでアルバイトをして、帰ってきて、ご飯を食べて、眠る——その日常の全てに、相変わらず壁は存在していた。資本お化けは今日も誰かの不安を餌に成長している。アルゴリズムは今日も誰かの時間を奪っている。

しかし、見え方が変わった。

壁が透けて見えるようになった、というのは比喩ではない。実際に、スーパーのレジに立っている時、ふと気づくのだ。この壁は誰が作ったのか。この不便さは、誰のためのものか。このルールは、何を守っているのか。

問いが自然と浮かぶようになった。あの飴色の背表紙の本が、僕の中に植え付けた種が、ようやく芽を出したのだ。

サキとは週に一度、喫茶店で会うことにした。壁ノート——僕たちはそう呼んでいた——を持ち寄って、一週間の間に見つけた壁について話し合った。サキは出版社の仕事の中で見つけた様々な壁を、細かい字でノートに書き留めてきた。

「編集者と著者の間の壁」とか、「営業部と編集部の間の壁」とか、「やりたいこととやらなきゃいけないことの間の壁」とか。

「地力の人たちのことを考えるとさ」とある日、サキが言った。「彼らは壁について考えたりしないんだろうなって」

「——たぶんな」

「でも、彼らが作ってくれているものがあるから、僕たちは壁について考えていられる」

それはその通りだった。スーパーで働いていると、それがよくわかる。配送のおじさんたちは朝早くから野菜を運んでくる。工場の人たちは商品をパッケージングする。清掃のスタッフは店内をきれいに保つ。彼らは黙々と仕事をこなす。壁について考えたりしない。しかし、彼らの力が社会の土台を支えている。

「地力って、そういうことなんだろうな」と僕は言った。

「哲学だけでは生きていけない。でも、力だけでも生きていけない。その両方が必要なんだ」とサキが言った。

「そも、壁とは何か——その答えはまだ見つかっていない」と僕は言った。「でも、わかったこともある」

「何?」

「壁とは、問いを生むものだということだ」と僕は言った。「壁があるから、人は問う。問うから、人は変われる。壁は決して悪いものだけじゃない。壁があったから、僕はあの本に出会った。壁があったから、君に出会った」

サキは黙ってコーヒーを一口飲んだ。窓の外では、夕日がビルの谷間に沈んでいくところだった。彼女の耳が、茜色の光を受けてほのかに輝いていた。

「あなたは変わったね」とサキが言った。「初めて会った時より、ずっと」

「——そうか」

「良くも悪くも、壁のせいね」

その言葉に、僕は少し笑った。

「——僕はたぶんこれからも、そのことを忘れずに生きていく」

「壁のこと?」

「壁の向こう側に、何かがあるってことだ」

サキは頷いた。そして、ノートの新しいページに何かを書き始めた。覗き込むと、彼女はこう書いていた。

「そもそも壁とは、内と外を分けるものではなく、内と外をつなぐものである」

「それ、いいね」と僕は言った。

「池田さんの本に書いてあったのを、アレンジしてみたんだ」と彼女は言った。

その夜、帰り道にコンビニに寄った。電子マネーはまだよくわからないので、現金で支払った。レジの店員は感じのいいおじさんで、「ありがとうございます」と明るく言った。

コンビニを出ると、見上げた空に星が出ていた。都市の灯りに負けない、確かな光を放っている星がいくつもあった。あの博物館で見た夜と同じ星空だ。

壁はまだそこにある。資本お化けも、建前を守る人々も、インプレゾンビも、どこかで今日も活動している。アルゴリズムは今日も誰かのフィードを支配している。

しかし、それでいいのだと思う。

壁をなくすことが目的ではない。壁があることを自覚すること。壁の向こう側を想像すること。それが、おそらくは自由の始まりなのだ。壁のない世界ではなく、壁を認識した上で——それでも歩き続けること。それが、地力というものなのかもしれない。

飴色の背表紙の本は、今も僕の部屋の机の上にある。読み込まれてページはさらに茶色くなったが、それでもまだ、しっかりと存在している。タマは施設に置いてきてしまった。今ごろ、新しい誰かの膝の上で眠っているだろうか。

僕はノートを開いて、今日見つけた壁を書き留めた。

「コンビニの電子マネーの壁——もう少し勉強すれば越えられる気がする」

そして、その横に書き加えた。

「そも、壁の向こう側には、いつだって誰かがいる」

サキに明日、このノートを見せるのが楽しみだった。

(了)


この記事は note.com から KTBLOG に移行されました。元記事: https://note.com/famous_prawn2009/n/n13edf3eb343d