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多聞山に燃ゆ — 九:蜘蛛の湯

多聞山に燃ゆ — 九:蜘蛛の湯

九——蜘蛛の湯

久秀は最後の茶を飲み終えた後しばらく動かなかった。湯が冷めるまで彼は座っていた。静寂の中に自分の鼓動だけが聞こえていた。彼はその鼓動を感じていた。生きているという実感。そしてそれが間もなく終わるという予感。彼はその両方を受け入れていた。平蜘蛛の茶釜が静かに湯気を立てていた。それもまた間もなく終わる。

久秀の最後の茶会には誰も立ち会わなかった。彼は独りで茶を点て独りで飲んだ。それは究極の孤独の茶会だった。しかし彼は孤独を感じていなかった。平蜘蛛の茶釜がそこにあったからだ。釜は彼の唯一の理解者だった。湯気の向こうに自分の人生が見えた。長かった。しかし悪くなかった。

茶室は久秀にとって最後の砦だった。ここだけは誰にも侵されない聖域だった。織田軍の包囲が狭まる中でも彼は茶室にこもった。茶釜の湯が沸く音だけが彼の世界だった。その音は変わらなかった。変わらない音こそが彼の心の支えだった。久秀はその音に耳を澄ませた。

久秀は最後の茶を飲み終えると釜の蓋を静かに閉めた。釜の表面の蜘蛛の巣模様がろうそくの火に照らされていた。彼は指でその模様をなぞった。冷たい鉄の感触。しかし彼の指は温かかった。長年使い込んだ釜は彼の手の温もりを覚えていた。彼は釜を両腕で抱きしめた。これで終わる。その覚悟はできていた。彼は立ち上がり茶室を出た。外の空気は冷たかった。

茶室の中は静寂に包まれていた。外では織田軍が総攻撃の準備を進めている。その物々しい気配も茶室の中には届かなかった。久秀は湯の音だけを聞いていた。何年も聞き続けた音。この音を聞くと彼は落ち着いた。戦いに疲れた心が癒された。今日この音を聞くのも最後だ。久秀はそう思いながら釜の湯を茶碗に注いだ。湯気が立ち上る。その香りが茶室に広がる。彼は目を閉じて香りを味わった。

最後の茶会は誰も知らないうちに行われた。久秀は誰も呼ばなかった。一人で茶を点てた。その味を一人で味わった。釜の湯気が立ち上るその向こうに自分の人生が浮かんで見えたような気がした。若き日の暗躍。多聞山への築城。大仏の炎上。筒井との戦い。信長との出会い。そして裏切り。すべてが湯気の中を通り過ぎていった。彼はその一つ一つを思い出した。後悔はなかった。自分の選んだ道を最後まで歩いた。それだけだった。釜の湯が冷めるまで彼は動かなかった。やがて立ち上がった。その足取りは確かだった。

総攻撃の前夜久秀は最後の茶会を開いた。茶室は本丸の最奥にあった。窓は閉め切られていた。灯りはろうそくの火だけであった。かすかな明かりが茶室の中を照らしていた。影が壁に揺れている。それだけが動くものだった。ろうそくの炎は静かに揺れていた。

久秀は平蜘蛛の茶釜を炉にかけた。湯が沸くまで彼はじっと釜を見つめていた。その目は普段と変わらなかった。鋭く冷静だった。手の置き方も背筋の伸ばし方もいつもとまったく同じだった。最後の茶会。久秀はいつもよりも丁寧に茶を点てた。一つ一つの動作がゆっくりと確かだった。この茶碗で茶を飲むのは最後だと知っていた。この茶杓を使うのも最後だった。この釜で湯を沸かすのも最後だった。すべてが最後だった。だからこそ彼は丁寧に心を込めて茶を点てた。その味を全身で味わった。

誰もいなかった。久秀一人だけである。湯が沸いた。彼は茶杓で抹茶をすくい茶碗に入れた。抹茶の緑が暗がりの中に浮かび上がる。湯を注ぐ。茶筅で攪拌する。その手は少しも震えていなかった。彼の手は茶を点てる時だけは完全に落ち着いていた。戦場でも政の場でもこの手が震えたことはない。しかし茶室での手の動きは別の種類の確かさを持っていた。何年もの修行の末に得た無意識の動きだった。

彼は茶碗を両手で包み口をつけた。苦かった。いつもより少し苦かった。それだけである。ゆっくりと飲み干した。茶碗を置いた。釜の蓋を取った。湯気が立ち上る。その奥に平蜘蛛の模様が浮かんでいる。蜘蛛の巣が湯気の中で揺らめいている。久秀はその模様を長い間見つめていた。視線は釜の表面をゆっくりと這っていた。蜘蛛の巣の一本一本の線をたどるように。何を思っていたのか誰にもわからない。彼は立ち上がった。茶室の外では夜明け前の冷たい風が吹いていた。遠くで織田軍の陣から太鼓の音が聞こえてきた。低く鈍い音が山の空気を震わせていた。その音は次第に大きくなった。久秀は本丸の奥へと歩いていった。その背中を誰も見ていなかった。

茶室の中にはまだ湯気が残っていた。炉の灰はまだ温かかった。久秀の座っていた畳の上にはかすかな窪みが残っていた。長年同じ場所に座り続けた証だった。その窪みは彼の身体の形をしていた。茶碗の中にはほんのわずかな茶の残りがあった。それを誰も片付けなかった。茶室は久秀が出て行ったそのままの状態で残された。時間が止まった部屋だった。

久秀は廊下を歩いた。足音は石の床に響いた。夜明け前の城は静かだった。見張りの兵が立っていた。彼らは久秀を見ると黙って頭を下げた。久秀はそれに応えずに歩き続けた。彼の目は前方を見ていた。遠くを見ていた。

ある部屋の前で久秀は立ち止まった。そこには若い侍が一人座っていた。久秀の嫡男久通だった。二十五歳。父と同じく茶を愛した男だった。久秀は息子の前に座った。久通は父を見上げた。その目は冷静だった。二人の間に言葉はなかった。久秀は息子の肩に手を置いた。それだけだった。久通は深く頷いた。親子の最後の対面だった。久秀は立ち上がった。振り返らなかった。

城の台所では最後の粥が炊かれていた。粥の匂いが廊下に漂っていた。それはわずかな匂いだった。兵たちが最後の食事を取っていた。彼らは久秀を見ると黙って箸を置いた。久秀は彼らに手を振った。食べ続けろという意味だった。兵たちは再び箸を取った。しかし誰も粥を口に運ばなかった。久秀が通り過ぎるのを待っていた。彼らの目には涙があった。久秀はそれを見なかったふりをした。

本丸の階段を上がると風の音が強くなった。四層の高櫓の最上階。そこが久秀の最後の場所だった。彼は平蜘蛛の茶釜を抱いていた。その重さが彼の腕に伝わっていた。重かった。しかしその重さが心地よかった。一生分の重さだった。彼は最後の一歩を踏み出した。その足は少しも迷っていなかった。

階段の途中で久秀は立ち止まった。壁に掛けられた一幅の掛け軸があった。白隠禅師の筆になるものだった。墨で描かれた円相。「本来無一物」の文字。久秀はそれを見上げた。彼の師から贈られたものだった。彼はその掛け軸を壁から外した。布で包んだ。手元に置いておきたかった。しかしそれも叶わぬと知っていた。彼は掛け軸を元の場所に戻した。誰かの手に渡るだろう。それでよかった。

最上階の部屋には火薬の樽が積まれていた。樽は二十以上あった。それらは整然と並べられていた。久秀は一つ一つの樽に手を触れた。木のざらついた感触。火薬の匂い。彼はその匂いを深く吸い込んだ。戦の匂いだった。長年彼を生かしてきた匂いだった。窓の外から鉄砲の音が聞こえてきた。まだ遠かった。しかし確実に近づいていた。久秀はその音に耳を傾けた。そして静かに平蜘蛛の茶釜を抱き直した。彼の指が釜の縁をなぞった。その感触には一片の迷いもなかった。