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多聞山に燃ゆ — 二:多聞山

多聞山に燃ゆ — 二:多聞山

二——多聞山

永禄二年の春。久秀は奈良の北東の丘に立っていた。草むらが風に揺れている。彼は一歩も動かずに地形を見つめた。丘の傾斜。日の光の射す角度。風の通り道。彼の頭の中ではすでに城の姿が描かれていた。

その日の夕方、久秀は大和中の石材職人を呼び集めた。十人ほどの男たちが彼の前に並んだ。彼らは皆顔を上げて久秀を見た。久秀は一枚の紙を取り出した。石垣の設計図だった。線は一本一本が正確だった。寸法が細かく書き込まれている。職人たちはその緻密さに息を呑んだ。久秀は何も言わずに設計図を広げた。ただじっと職人たちの反応を見ていた。

「この石垣を組めるか。」

久秀の声は低かった。職人の一人が前に出た。六十近い老練の石工だった。彼は設計図をじっくりと眺めた。そして頷いた。

「組めます。」

久秀はそれだけを聞くと踵を返した。その背中に職人たちは圧倒された。久秀の後ろ姿は迷いがなかった。風が彼の袖をはためかせた。彼は振り返らなかった。

翌日から石の切り出しが始まった。奈良山の山腹に穴が開けられた。槌の音が山に響いた。朝から晩まで槌の音は絶えなかった。久秀は毎日その音を聞いていた。彼はその音を聞くのが好きだった。石を打つ規則正しい響き。それは城が生まれる産声だった。

多聞山城は久秀の人生の集大成だった。彼はこの城にすべてをかけた。財産。時間。そして誇り。城を築くことで彼は自分の存在をこの地に刻みつけようとした。後世に残るものを作りたかった。その願いは叶った。多聞山城は日本初の本格的な城郭として歴史に名を残した。彼の遺した石垣は今も若草中学校の校庭に眠っている。

築城が始まった。朝が来る前に久秀は現場に立っていた。夜露で地面は濡れていた。彼の足袋はすぐに泥に染まった。しかし彼は構わなかった。一日中現場を歩き回った。石の割り出し。地盤の確認。堀の深さ。すべてを自らの目で確かめた。

昼になると人夫たちに粥が振る舞われた。久秀も同じ粥を食べた。別の膳は用意されなかった。彼は人夫たちと同じ釜の飯を食った。側近たちはそれを快く思わなかった。城主が人夫と同じものを食べるのは見苦しい。しかし久秀は耳を貸さなかった。

「城は私一人で作るものではない。」

それが彼の口癖だった。久秀は自ら鍬を取ることもあった。土を掘り石を動かす。彼の手はすぐに豆だらけになった。しかし彼は決して弱音を吐かなかった。その姿を見て職人たちは奮い立った。

久秀は城の完成後も毎日石垣を点検した。緩んだ石はないか。苔の生え方は均一か。水はけはよいか。彼は職人と共に石を一つ一つ確かめた。城は生き物だと彼は言った。手をかけなければすぐに劣化する。だからこそ毎日手を入れなければならない。久秀は自ら率先して城の手入れをした。彼の城への愛着は本物だった。

雨の日も久秀は城を歩いた。雨が石垣を叩く音。水が溝を流れる音。彼は耳を澄ませてその音を聞いた。水の流れ方で石垣の状態がわかるのだと言った。水が滞る場所があればそこに問題がある。彼はすぐに職人を呼んで直させた。

冬の朝、石垣には霜が降りた。久秀は白く息を吐きながら石を撫でた。冷たい石の感触。彼は目を閉じてその感触を確かめた。掌の下で石は確かに息づいていた。彼の指は石の表面の細かな凹凸をなぞった。その一つ一つに彼の記憶が刻まれていた。

城の設計図は久秀自身が描いた。彼は建築にも造詣が深かった。多聞山の地形を何度も測量した。風の通り道。水の流れ。日の当たり方。すべてを計算に入れた。石垣の角度は攻めてくる敵の動きを考慮して決められた。堀の深さは梯子では越えられないように設計された。高い櫓からは奈良の町全体が見渡せた。城は攻める者にとっては難攻不落の要塞でありながら住む者にとっては優雅な館だった。久秀はそこに自分の理想を実現した。強さと美しさの両立。それが彼の求めたものだった。しかし城は結局彼の命を救わなかった。いや彼は城に救われることを望んでいなかったのかもしれない。

永禄二年。久秀は奈良の地に城を築くことを決めた。場所は平城京の北東の外れ奈良坂を見下ろす小高い丘だった。南には東大寺の大仏殿の甍が見え北には奈良山が連なる。西方には遠く生駒の山並みが霞んでいた。地元の人々はこの丘を多聞山と呼んでいた。北方を守護する神多聞天の名を久秀は自分の城に与えた。この地を選んだ理由を久秀は誰にも言わなかった。しかし東大寺への街道を見下ろし奈良町全体を掌握できるこの位置は戦略的に重要だった。そして何よりこの高さから見る東大寺の甍は久秀にとって特別な意味を持っていたのかもしれない。彼は城の高櫓から東大寺を眺めるのが好きだった。眺めながら何を考えていたのか。それは誰も知らない。

築城は驚くべき速さで進められた。久秀は大和中から人夫を集めた。数百人の男たちが昼夜兼行で工事を行った。土を掘り石を運び木を組む。その指揮を久秀は自ら執った。朝早くから現場に出て職人たちに直接指示を出した。彼の指示は具体的で曖昧なところがなかった。曖昧さを彼は何より嫌った。石は奈良山から切り出された。木は吉野から運ばれた。瓦は地元の窯で焼かれた。すべての材料が久秀の指示の下で選ばれた。彼は一枚の瓦さえも自ら検分した。割れているものがあればすぐに焼き直させた。

城は当時の常識を覆すものだった。それまでの城は山頂に築かれ天然の地形を利用した防御が主体だった。土を盛り柵を巡らす。簡素なものだった。しかし久秀の城は平地に近い丘の上に石垣と堀と土塁で囲まれた独自の構造を持っていた。石垣は加工された花崗岩を精巧に積み上げる。算木積みと呼ばれる技法で石と石の隙間を最小限にした。空堀は深さ三間を超える。幅も三間以上あった。これは戦うための城だった。本格的な攻防戦を想定した日本で最初の城郭だった。後に織田信長が築く安土城や豊臣秀吉の大坂城の原型となったと言われる。

天守に相当する高櫓は四層だった。周囲には無数の櫓が立ち並びその間を石垣が結んでいる。城の周囲には深い空堀が巡らされていた。この空堀は敵の侵入を防ぐだけでなく雨の日には水を貯め籠城に備える役割も持っていた。城の内部は複雑に入り組んでいて初めて訪れた者は必ず迷ったと言う。久秀は意図的に道を迷わせるように設計した。

久秀は石垣の積み方に特にこだわった。自ら石の割り出しに立ち会った。一つ一つの石を職人と共に選んだ。石の形。重さ。色合い。すべてが重要だった。石の一つ一つに彼のこだわりが込められていた。「石は生きている。」彼はそう言った。職人たちはその言葉の意味を完全には理解できなかった。しかし久秀の指示に従って石を積むと確かに石はしっかりと噛み合った。長い年月が経っても崩れない石垣がそこにできあがった。雨風にさらされても地震が来てもびくともしなかった。久秀の築いた石垣は職人たちの技と彼の執念が一つになった結晶だった。

城が完成したのは着工からわずか一年後だった。あまりの速さに周囲の者は驚いた。久秀は完成した城を一人で見渡した。誰もその隣に立つことは許されなかった。完成した城を見上げて久秀は何も言わなかった。ただ満足げに目を細めた。その表情は茶室で平蜘蛛の茶釜を見つめる時のそれと同じだった。その城に多聞山城という名がついたのはいつからか定かではない。