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多聞山に燃ゆ — 八:信貴山

多聞山に燃ゆ — 八:信貴山

八——信貴山

久秀は信貴山城に籠もってからも変わらず茶を点て続けた。その習慣だけは誰にも奪えなかった。茶釜の湯が沸く音は城全体に響いた。その音を聞いて兵たちは安心した。城主はまだ生きている。まだ戦いは終わっていない。湯の音は希望の音だった。久秀はその音を最後まで絶やさなかった。

信貴山城に籠もってから久秀はほとんど睡眠を取らなかった。しかし彼の目は異様に輝いていた。死を目前にした男の目だった。彼は最後の日々を茶と共に過ごした。平蜘蛛の茶釜だけが彼の友だった。彼は釜に語りかけた。この釜と共に生きてきた。そしてこの釜と共に死ぬ。それが彼の願いだった。

信貴山は戦の山だった。聖徳太子が物部氏を討った伝説の地。久秀はその地を最後の場所に選んだ。ここで死ぬことに意味があると信じていた。彼は信貴山の地形を熟知していた。どこに敵が来るか。どこに味方を配置するか。すべて計算し尽くした上での選択だった。しかし兵力の差は如何ともしがたかった。

信貴山城に集まった兵はわずかだった。その多くは久秀に恩義を感じて最後まで従った者たちだった。久秀は彼らに茶を振る舞った。最後の茶会だった。兵たちは黙って茶を飲んだ。誰も言葉を発しなかった。湯の音だけが響いていた。久秀は一人一人の顔を見渡した。そして静かに頷いた。それが彼なりの感謝の言葉だった。兵たちも無言で頷き返した。言葉は必要なかった。

包囲が始まってから久秀はほとんど眠らなかった。しかし疲れた様子は見せなかった。毎日決まった時間に茶を点てた。その習慣だけは最後まで崩さなかった。夜になると城の周りに無数の篝火が灯った。織田軍の陣営からは酒盛りの声が聞こえてきた。自分たちの勝利を確信していた。久秀はその声を聞きながら静かに茶を飲んだ。負けることはわかっていた。しかし最後まで茶人であり続けることが彼の誇りだった。

信貴山城での籠城は絶望的だった。兵は減り食料は尽きた。しかし久秀は怯えなかった。彼は知っていた。ここが最後の場所だと。信貴山から見える景色は美しかった。東に大和の山々西に大阪湾。その景色を久秀は毎日見た。この景色を見るのも今夜が最後か。彼はそう思った。茶を点てる手はいつもと同じだった。戦況が悪化しても彼の手は震えなかった。ただ湯の音だけが城中に響いた。その音を聞いて兵たちは落ち着いた。久秀は最後まで茶人であり続けた。武将である前に茶人であることを彼は選んだ。それが彼の誇りだった。

天正五年。久秀は三度目の謀反を起こした。今度はもう戻れなかった。信長は大軍を送った。総大将は織田信忠。信長の嫡男だった。軍勢は総勢一万を超えた。信貴山城を包囲した。城の周囲には無数の陣幕が張られた。白い幕が山の裾野を埋め尽くした。夜には篝火が周囲の山々を照らした。その数は星のように多かった。信貴山城は完全に孤立した。兵の士気は日ごとに下がった。夜陰に紛れて城を抜け出す兵が後を絶たなかった。

信貴山城は多聞城よりもさらに厳しい地形に築かれていた。山頂は狭く平らな場所は限られていた。兵を多く置くことはできなかった。籠城には不向きな城だった。それでも久秀はここを最後の砦と決めた。理由は単純だった。ここから見える景色が彼の最後の景色としてふさわしいと思ったからだった。東には大和の山並み。西には遠く大阪湾がかすんで見える。その景色を久秀は何度も見た。

久秀は城内にいた。兵は千人を切っていた。籠城に必要な兵糧も限られていた。十日も持たない。水も不足していた。井戸の水は底をつき始めていた。しかし久秀の表情に焦りはなかった。彼は毎日茶を点てた。朝昼夕そして夜。平蜘蛛の茶釜が休みなく使われた。湯の音が城中に響いた。兵たちはその音を聞くたびになぜか落ち着いた。城主がまだ平常心を保っていることが伝わったのである。

ある日信長の使者が城に来た。久秀の旧知の僧だった。僧は久秀の茶の湯の弟子でもあった。「平蜘蛛の茶釜を差し出せば命は助ける。信長様がそう申されておる。」久秀は使者の前で茶を点てた。そしてその茶を使者に差し出した。「これを信長様にお納めください。」使者が帰った後久秀は独り言を言った。「釜はやれぬ。」彼は茶釜を抱きしめた。その肌は冷たかった。しかし久秀の手のひらにぴたりと収まった。長年使い込んだ自分の手に馴染んだただ一つの器だった。

包囲は十日目に入った。城内の兵糧は尽きかけていた。一日二度の粥すらままならぬ日があった。兵たちは痩せ細った。それでも武器を手放さなかった。久秀を見捨てなかった。久秀は毎朝櫓に上がった。眼下の織田軍の陣を見渡した。赤い旗が風に揺れていた。無数の槍の穂先が朝日を反射していた。一万の軍勢がひしめくその光景は壮観だった。久秀はそれを見て微笑んだ。自分を討つためにこれだけの軍勢を差し向けた信長。その執念に応える価値があると彼は思った。

城の防備は日々弱まった。矢は尽きた。鉄砲の玉も底をついた。城壁のあちこちに穴が開いた。それを兵たちが土嚢で塞いだ。しかし塞ぐそばからまた崩れた。修理の材料も尽きていた。夜になると城内のあちこちから死者を弔う読経の声が聞こえた。久秀はその声を聞きながら茶を点てた。茶室の灯りだけが夜の城の中でぽつんとともっていた。その灯りを見てどこからか兵が集まってきた。彼らは茶室の外に座り込んだ。湯の音に耳を澄ませていた。久秀は茶を点て終えると釜の蓋を閉めた。静寂が戻った。彼らは黙って各自の持ち場に戻った。それだけでよかった。

ある晩のことである。月のない夜だった。山の麓から突然鬨の声が上がった。織田軍の夜襲だった。久秀は櫓の上からその様子を見下ろした。数十の松明が城壁に突き刺さった。城内のあちこちで火が上がった。兵たちは必死に消火にあたった。その間にも矢が飛んできた。久秀の脇をかすめて矢が壁に突き刺さった。彼は動かなかった。ただ眼下の戦いを見ていた。やがて夜襲は退けられた。死者の数は多かった。久秀は死者の名前を一人ひとり口に出して読んだ。その声は小さかった。誰にも聞こえなかった。

信貴山城の本丸は山頂の狭い平地に建てられていた。本丸の周囲にはわずかな空き地があるだけだった。そこに兵たちが野営していた。雨の日も風の日も彼らはそこで過ごした。休む場所もなかった。立ったまま眠る兵もいた。しかし久秀の茶室だけは変わらなかった。畳も障子もそのままだった。茶道具はすべて整然と並べられていた。久秀はその空間だけは最後まで守り抜いた。

ある日、一人の老いた侍が茶室を訪れた。久秀に仕えて三十年になる男だった。彼は茶室の入口にひざまずいた。久秀はその侍に茶を差し出した。老侍は震える手で茶碗を受け取った。その手は戦で傷ついていた。指の二本がなかった。それでも彼は茶碗をしっかりと両手で包んだ。茶を飲み干した。老侍は何も言わずに立ち去った。それが彼らの最後の別れだった。

信貴山に秋が来ていた。山の木々が色づき始めていた。もみじが赤く染まっていた。その美しさがむしろ戦の無常を際立たせた。久秀は紅葉した葉を一枚手に取った。掌の上で葉を転がした。やがて風がそれを奪い去った。彼はその行方を見送った。自分もあのように散るのだと彼は思った。しかし茶釜だけは共に散る。その思いだけが彼の胸にあった。