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多聞山に燃ゆ — 六:信長の影

多聞山に燃ゆ — 六:信長の影

六——信長の影

久秀は信長との関係に疲れ果てていた。信長の前では常に緊張を強いられた。彼の一挙一動が監視されていた。久秀にとってそれは耐え難いことだった。自由を愛する男にとって束縛ほど苦しいものはない。彼は茶室の中だけで自由を感じることができた。だからこそ茶室にこもる時間が増えていった。

永禄十一年九月。信長が足利義昭を奉じて上洛した。その軍勢は一万を超えた。旗指物が風に揺れた。鉄砲隊の足音が地を震わせた。久秀は京都の郊外で信長を出迎えた。初めて見る信長の姿に久秀は息をのんだ。信長は背が高かった。痩せた体を鎧で包んでいた。その目は異様な光を放っていた。一目でわかった。この男は並の武将ではない。久秀は深く頭を下げた。その時、彼の背中に冷たい汗が流れた。信長は馬上から久秀を見下ろした。しばらくの沈黙があった。やがて信長が口を開いた。「弾正か。」久秀はさらに深く頭を下げた。「はっ。」その短い応答だけで久秀の緊張は信長に伝わった。信長は軽く笑った。その笑い声には含むところがあった。久秀はそれを聞き逃さなかった。

信長の入洛は京都に衝撃を与えた。町は静まり返った。人々は戸を閉ざした。信長の軍は整然と進んだ。略奪は一切なかった。それが逆に恐ろしかった。久秀はその光景を自邸の二階から見ていた。信長はただの武威ではない何かを持っていた。新しい時代の風だった。久秀はその風に飲み込まれまいと踏ん張った。しかし風はますます強くなった。

久秀は信長の前で何度も茶を点てた。そのたびに彼は完璧な茶を目指した。信長は茶の味には詳しくなかった。しかし久秀の緊張は伝わっていた。久秀は信長の前だけは本当の自分を出せなかった。すべてが計算だった。その計算を信長は見抜いていたのかもしれない。二人の間には常に緊張があった。それは決して解けることのない緊張だった。

ある日の茶会。久秀は信長のために秘蔵の茶器を取り出した。松島の茶壺だった。名物中の名物だった。久秀はそれを自らの手で拭いた。布の感触が指に伝わった。この茶壺にどれだけの価値があるのか。久秀にはわかっていた。信長もその価値を知っていた。信長は茶壺を見つめた。目が据わっていた。「これはよいものだ。」久秀はうなずいた。「お納めください。」信長は一瞬ためらった。そして受けた。その手は確かだった。久秀は内心でほくそ笑んだ。これで信長の信用を得た。しかし同時に何か大切なものを失った気もした。茶室に戻った久秀は空の床の間を見つめた。茶壺のあった場所がぽっかりと空いていた。久秀はそこに座ってしばらく動かなかった。

久秀は信長を利用しようとした。しかし信長もまた久秀を利用していた。二人は互いを利用しながら表面上は良好な関係を装っていた。いつ裏切るか。いつ見破られるか。駆け引きの連続だった。久秀は疲れていた。誰も信じられない日々。常に計算と策略が必要な生活。彼は茶室の中だけが唯一の安らぎだった。平蜘蛛の茶釜だけが彼の心を癒した。しかしその安らぎも長くは続かなかった。

信長はしばしば久秀を安土に呼び寄せた。久秀は京都を出て琵琶湖の畔を馬で進んだ。湖面は風のない日は鏡のように静かだった。しかし安土の城はまだ建設中だった。巨大な石垣が組まれていた。人夫たちが蟻のように働いていた。久秀はその光景に圧倒された。これが信長の力か。すべてが桁違いだった。城の規模。集められる人夫の数。動かされる金。久秀の多聞城も立派な城だった。しかし安土の城は次元が違った。久秀は城の石材を見上げた。一つ一つの石が巨大だった。どうやってこんな石を運んだのか。久秀には想像もできなかった。彼は無意識に拳を握りしめた。

久秀は信長の強さを認めていた。信長の前では誰もが小さく見えた。久秀も例外ではなかった。しかし久秀は信長に従うことを内心では拒んでいた。誰にも従いたくない。それが久秀の本心だった。信長の前で頭を下げるたびに久秀の心は傷ついた。しかし表には出さなかった。彼は耐えた。機会をうかがった。信長が弱体化する時を待った。しかし信長はますます強くなった。久秀の焦りは日ごとに募った。このままでは自分は信長の支配下で終わってしまう。久秀はそう思った。彼の誇りがそれを許さなかった。裏切るか裏切られるか。それが戦国の世の常だった。久秀は裏切ることを選んだ。

織田信長が上洛したのは永禄十一年のことだった。久秀はすぐに信長に従った。彼は信長の力を見抜いていた。この男に逆らえば生き残れない。久秀にはそれが一目でわかった。信長はそれまでの武将とは違っていた。規模も発想もすべてが桁違いだった。久秀は自分の直感を信じた。直感が彼をここまで生き延びさせてきた。久秀は信長の前に出た時その異様な迫力に圧倒された。信長の目は鷹のように鋭くすべてを見透かしていた。久秀はこの男に逆らってはならないと即座に判断した。判断は瞬時だった。それが彼の生き残る術だった。

上洛後、信長は京都の支配を固めた。町に番組を置いた。市を整備した。税を定めた。すべてが迅速だった。久秀はその手際の良さに驚いた。信長は単なる武将ではなかった。新しい秩序を作ろうとしていた。その秩序の下では久秀のような存在は必要とされなくなるかもしれない。久秀はその予感を抱いた。だからこそ彼は信長に取り入ることに専念した。茶器を献上した。情報を提供した。人脈を紹介した。すべては自分の存在価値を示すためだった。

信長もまた久秀を重宝した。久秀の持つ情報力。政治的手腕。茶の湯の知識。すべてが信長にとって有用だった。信長は久秀に大和の支配を認めた。久秀は信長の側近として京都と奈良の間を行き来した。茶器を献上した。城を提供した。信長との関係は表面上は良好だった。久秀は信長の前ではいつも従順な態度を崩さなかった。信長の前では彼もまた一人の家臣だった。久秀は信長に取り入るためにあらゆる手段を使った。名物の茶器を差し出した。戦の情報を提供した。信長のための茶会を開いた。しかしそれらはすべて計算の上だった。しかし久秀の胸の内には別の思いがあった。彼は信長を敬服してはいなかった。信長の力を利用しながら自分の立ち位置を確保する。それが久秀の狙いだった。信長は自分より遙かに大きな存在だった。しかし久秀は誰にも従うことを好まなかった。三好長慶に仕えた時も心から従っていたわけではない。信長も同じだった。信長と久秀の間には奇妙な緊張関係があった。信長は久秀の能力を評価していたが同時にその危険性もよく理解していた。だからこそ信長は久秀から目を離さなかった。久秀もまた信長の力を熟知していた。信長の目はすべてを見透かすようだった。久秀は信長の前ではいつも油断ができなかった。それは久秀にとって久しぶりの感覚だった。久秀を緊張させることのできる男。それが織田信長だった。久秀の心の奥底には自分だけの世界があった。茶室の中で平蜘蛛の茶釜と向き合う時だけ彼は自分自身でいられた。その世界を誰にも侵させたくなかった。信長であってもいや信長だからこそ侵させたくなかった。信長はすべてを支配しようとする男だった。久秀の内面の世界さえも。信長はある時久秀にこう言った。「弾正お前は裏切るなよ。」久秀は笑った。「滅相もございません。」その目は笑っていなかった。信長もそれを見ていた。しかし何も言わなかった。二人の間にはわずかな沈黙が流れた。その沈黙がすべてを物語っていた。信長は久秀を信用していなかった。久秀もまた信長を信用していなかった。二人は互いの危険性をよく知っていた。その沈黙の後信長は立ち上がった。久秀は頭を下げたまま動かなかった。部屋を出ていく信長の足音が遠ざかった後も久秀は動かなかった。やがて彼は顔を上げた。その目には冷たい光があった。

久秀はその夜、一人で茶室に坐った。灯りは一つだけだった。平蜘蛛の釜が闇の中でかすかに光った。湯が沸く音が聞こえた。久秀は信長の言葉を反芻した。「裏切るなよ。」あの言葉の裏には何があったのか。警告か。あるいは挑戦か。久秀にはわからなかった。ただ一つ確かなことがあった。信長は自分を信用していない。そして自分も信長を信用していない。その関係はいつか破綻する。久秀はその日が来るのを待っている自分に気づいた。彼は茶碗を手に取った。信長から賜った茶碗だった。高台に信長の花押が刻まれていた。久秀はその茶碗をじっと見つめた。そしてゆっくりと床に置いた。その夜、久秀は初めて明確に信長に叛く決意を固めた。茶室の外では夜明け前の冷たい風が吹いていた。遠くで犬の遠吠えが聞こえた。