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多聞山に燃ゆ — 序:校庭の土塁

多聞山に燃ゆ — 序:校庭の土塁

序——校庭の土塁

葵の家の本棚に古い歴史の本があった。彼女の祖父が遺したものだった。その本には松永久秀のことが詳しく書かれていた。多聞城の石垣は日本で最初の本格的な石垣だったという。久秀は茶人としても名高く千利休とも交流があったという。平蜘蛛の茶釜の写真も載っていた。平たくどっしりとした形。表面の蜘蛛の巣のような模様。葵はその写真をじっと見つめた。この釜を抱いて久秀は死んだ。なぜそこまでして茶釜を手放さなかったのか。葵にはわからなかった。しかしその執念は四百年の時を超えて彼女に何かを伝えているような気がした。

直人と葵は校庭の片隅に立っていた。奈良市立若草中学校。二年生。体育の時間の終わりだった。十月の半ば。空は高く風は冷たくなり始めていた。奈良盆地の秋は短い。夏の暑さが去るとすぐに冬の寒さが訪れる。その合間のわずかな晴れ間だった。空には鰯雲が広がっていた。遠く東大寺の大仏殿の甍がかすんで見える。あの大仏殿は戦国時代に一度焼け落ちた。そのことをこのときの直人と葵はまだ知らなかった。奈良の町は歴史の上に成り立っている。古い寺院。古い石垣。古い町並み。しかしそれを実感することはほとんどない。毎日見ている風景の中に、四百年前の出来事が埋まっている。直人と葵は、そのことにまだ気づいていなかった。学校の周りには古い寺社が点在している。奈良公園には鹿がいる。それが日常である。しかしその日常の下に、戦国の時代が静かに眠っている。

二人は鉄棒の裏手にある低い土の盛り上がりを見ていた。高さは人の腰ほど。幅は二間ほど。雑草が生い茂り普段は誰も気に留めない。ただの土の山だった。それ以上でもそれ以下でもなかった。直人はこの校庭で二年間体育の授業を受けてきたがこの土の山に初めて注意を向けた。今まで何百回となく横を通り過ぎてきた。一度も気にしたことはなかった。それが今日突然、目に留まった。何が彼の注意を引いたのか。本人にもわからなかった。ただ、その土の山が、そこにあること自体が、彼に何かを問いかけているような気がした。

「これ何やろな。」直人が言った。彼は五十メートル走でクラスで一番だった。息がまだ少し上がっている。彼は土の山を蹴った。固かった。足の裏に鈍い衝撃が返ってきた。中に何か硬いものが詰まっているような感触だった。普通の土ではない。土の下に何かがある。直人はもう一度蹴った。同じ衝撃が返ってきた。石だ。土の下に石がある。彼の靴の裏に、土の感触とは違う堅い感触が伝わった。それは、自然の石ではなく、誰かの手が加えられた石の感触だった。

葵はしゃがみ込んで土に手を触れた。指先に硬い感触があった。土の下に何かが隠れている。彼女にはそれがわかった。直人のように蹴るのではなくそっと触れるように。彼女の指が土の表面をなぞった。土が指の下で崩れた。「石や。古い石。」土を払うと加工された花崗岩の一部が顔をのぞかせた。角は丸く表面は苔むしている。誰かが長い間置き去りにした石だった。石の表面には鑿の跡がかすかに残っている。まっすぐな線が規則正しく並んでいる。それは道具で削られた痕跡だった。四百年前の誰かの仕事の跡だった。その石は長い年月を経て土に埋もれ草に覆われていた。しかし確かにそこにあった。誰かがここに置いた。そして忘れられた。葵の指がその石の表面をなぞった。石は冷たかった。しかしその冷たさの中に、かつて誰かがこの石に込めた熱意が残っているような気がした。

体育教師が通りかかった。若い男の教師だった。地元の出身だとどこかで聞いたことがある。彼もまたこの校庭で育った一人だった。この土の山も子供のころから見てきた。しかし彼にとってはただの土の山だった。「先生これ何ですか。」葵が訊いた。教師は一瞥した。「ああそれな。多聞城の遺構や。」それだけ言って教師は歩き去った。彼にとっては日常の光景に過ぎなかった。子供のころからそこにあったもの。特別なものだとは思っていなかった。しかし直人と葵にとっては違った。初めて聞く名前だった。多聞城。その響きが、二人の心に何かを刻みつけた。城の名前を聞いた瞬間、あの土の山が急に違って見えた。四百年前の城が、いま自分たちの足元に眠っている。そのことが、二人に静かな衝撃を与えた。

放課後二人は図書室に行った。郷土資料の棚があった。その片隅に古いパンフレットが一冊置かれていた。表紙は黄ばみ角は折れている。誰も長い間手に取った形跡がなかった。埃をかぶっていた。開いた。インクの匂いがした。「多聞山城——奈良市法蓮町。永禄二年松永弾正久秀によって築かれた日本初の本格的な戦国城塞。石垣と空堀を備え天守閣の起源とする説もある。城内には四層の高櫓があり周囲を深い空堀が巡らされていた。現在は奈良市立若草中学校の敷地となっている。遺構として土塁の一部と石垣の基礎が残る。」

松永弾正久秀。その名前を二人は初めて知った。パンフレットにはさらに説明が続いていた。茶人であり武将であり三度も主君を裏切った男。東大寺大仏殿に火を放った男。そして火薬と共に爆死した男。平蜘蛛の茶釜を抱いて。「平蜘蛛の茶釜って知ってる?」葵が訊いた。直人は首を振った。その名前も初めて聞いた。

その夜直人は家で久秀を検索した。画面に様々な情報が現れた。どの記事も久秀を梟雄と書いていた。凶暴で人情のない英雄。しかし直人にはそれだけではない何かを感じた。一人の男が最後まで守り抜いたもの。それは茶釜だった。茶釜一つに人生をかけた男。そのことがなぜか気になった。眠りにつくまで平蜘蛛の茶釜の画像を何度も見返した。茶釜の表面には蜘蛛の巣のような模様が浮かび上がっていた。その模様が何かを語りかけているように思えた。

翌日校庭に出るとあの土塁が長い影を落としていた。四百年前この場所に城があった。そして一人の男がこの地に立っていた。直人と葵はその日から校庭の土塁が何かを語りかけているような気がしてならなかった。風の音がいつもより違って聞こえた。その風は四百年前の風と同じ風だった。同じ風が、同じ場所を吹き抜けている。そのことに、二人は静かな驚きとともに感じていた。 直人と葵はそれから毎日放課後になると土塁の前に集まった。教科書には載っていない歴史がそこにはあった。調べれば調べるほど久秀という男の魅力に引き込まれていった。彼は悪人だったのか。それとも時代の犠牲者だったのか。二人にはまだ判断がつかなかった。しかし一つだけ確かなことがあった。この地に立って久秀のことを考えていると、時間を超えて何かが通じ合っているような気がした。四百年前の男の思いが、現在の自分たちに届いているような気がした。それだけで十分だった。 葵の祖父の本には、久秀の最期の様子が簡潔に書かれていた。「信貴山城にて爆死。平蜘蛛の茶釜もろとも。」たった一行だった。しかしその一行から、葵は多くのことを想像した。一人の男が死を目前にして何を思うのか。平蜘蛛の茶釜を抱きしめたその手は、温かかったのか冷たかったのか。彼女にはわからなかった。しかしその問いかけこそが、歴史を学ぶことの意味なのかもしれないと、彼女は思った。 四百年は長い。しかしその石の冷たさは、昨日のものだった。 それが歴史というものだった。