← Back to Home
·

多聞山に燃ゆ — 終:若草の空

多聞山に燃ゆ — 終:若草の空

終——若草の空

直人と葵は翌日もまた土塁の前に立った。その日は雨が降っていた。雨に濡れた石は四百年前と変わらない色をしていた。葵は傘を差しながら石に手を触れた。冷たかった。しかしその冷たさの中にかすかな温もりを感じた。四百年の時を超えて久秀の手の温もりがそこにあった。

暗くなるまで二人はその場に立っていた。校舎の明かりが一つまた一つと灯った。遠くで犬の鳴く声がした。日常の音が戻ってきた。しかし二人の心の中にはまだ四百年前の男の思いが残っていた。直人が口を開いた。「また明日も見に来よう。」葵は頷いた。二人は土塁に別れを告げて家路についた。その夜直人は夢を見た。多聞山城の高櫓に立つ久秀の姿を。彼は遠くを見つめていた。その視線の先には何があったのか。直人にはわからなかった。しかしその背中は寂しげだった。葵もまた久秀の夢を見た。平蜘蛛の茶釜が湯気を立てている夢だった。

葵は改めて土塁を見た。四百年前久秀はここに立っていた。同じ地面の上に今自分が立っている。歴史は遠い昔のことではない。すぐ足元にある。そう思うと土塁が違って見えた。ただの土の塊ではない。一人の男の人生が詰まった場所だった。直人も黙って土塁を見ていた。二人は何も言わずにそこに立っていた。風が吹いた。その風はきっと四百年前も同じように吹いていた。その風に乗って久秀の思いが今もここに流れているような気がした。

帰り道二人は多聞城跡の石碑の前を通った。石碑は校門の脇にひっそりと立っていた。これまで何度も前を通ったのに気づかなかった。「ここにあの人が立ってたんやな。」直人が言った。「うん。」葵は石碑に刻まれた文字を読んだ。「多聞山城跡——松永弾正久秀築城。」その文字は風雨にやや摩耗していた。しかし確かにそこにあった。二人は石碑の前でしばらく黙っていた。風が吹いた。秋の終わりの冷たい風だった。その風は四百年前も同じようにこの場所を吹き抜けたのだろう。久秀の頬を打った風と同じ風が今度は自分たちの頬を打つ。直人はそのことを不思議に思った。時間は流れても風は変わらない。石も変わらない。そして人間の思いも変わらないのかもしれない。

直人と葵は放課後校庭に立っていた。あれから三週間が経っていた。十月も終わりに近づいていた。夕暮れが早くなっていた。午後五時には空はもう暗くなり始める。二人は図書室で松永弾正久秀のことを調べ続けていた。多聞城のこと。平蜘蛛の茶釜のこと。東大寺の炎上。そして信貴山での最期。調べれば調べるほど久秀という男の大きさとその孤独が浮かび上がってきた。彼は多くの人を殺した。裏切った。手段を選ばなかった。しかし彼は最後まで自分の美学を捨てなかった。平蜘蛛の茶釜を手放さなかった。最期の瞬間まで自分の茶器を自分の手で抱いていた。

「すごい人やったんやな。」直人が言った。「悪い人やったんかな。」と葵が言った。「わからへん。」「でもなんか。」葵は言葉を飲み込んだ。彼女は校庭の片隅にある古い土塁を見た。苔むした石。低い土の盛り上がり。それはただの土の塊に過ぎない。しかしその下には四百年前の男の思いが眠っている。彼がここに築いた城の最後の痕跡が。風雨にさらされ人々の記憶から忘れられかけているがそれでもここにある。土の下で静かに眠っている。

葵はその土塁にそっと手を触れた。石は冷たかった。秋の夕暮れの冷たさが石に染み込んでいた。しかしどこか温かみがあった。それは想像かもしれなかった。久秀という男の最後の熱が石の奥に残っているような気がした。彼の手の温もりが四百年前のまま石の中に閉じ込められているような。遠くで東大寺の鐘の音が聞こえた。再建された大仏殿に新しい梵鐘が懸かっている。その音が夕暮れの空に幾重にも響いて消えていった。天平の昔からこの地に響き続ける音である。久秀もこの音を聞いたのだろうか。大仏殿に火を放った男もこの鐘の音を聞いていたのだろうか。

直人も土塁に手を触れた。「なあ葵。この城ほんまにあったんやな。」「うん。」「俺らその上に立ってるんや。」葵は空を見上げた。夕焼けが校舎の屋根を赤く染めていた。四百年前も同じ夕日がこの城を照らしていた。久秀もこの夕日を見たのだろう。茶室の窓から多聞山の高櫓から。何を思って見ていたのだろう。そして今もなお変わらずに照らし続けている。静けさが校庭に広がっていた。生徒たちはもう帰ったあとだった。ただ風の音だけが聞こえる。校舎の影が長く伸びていた。その影の先にあの土塁があった。その風は多聞山の石垣の間を抜け若草の校庭を渡りどこまでも続いていくようだった。直人と葵はしばらくそこに立っていた。

ある土曜日の午後、二人はもう一度図書館へ行った。今度は久秀が愛した茶の湯の本を借りた。写真に写った平蜘蛛の茶釜の複製があった。現物は失われた。破片だけが残っている。写真では釜の表面に蜘蛛の巣のような細かい線が刻まれていた。一本一本の線が生きているように見えた。葵はその写真をじっと見つめた。久秀がこの釜を抱いて爆死した。その事実が写真を通して迫ってきた。

直人は多聞城の古地図を見つけた。築城当時の姿が描かれていた。本丸、二の丸、三の丸。曲輪。堀。櫓。一つ一つの建物が克明に描かれていた。地図の片隅には「松永弾正久秀築之」と書かれていた。直人はその文字を指でなぞった。四百年前の誰かの手がこの文字を書いた。その文字が今ここにある。その事実が直人には不思議だった。

夕方、二人は図書館を出た。外はもう暗くなりかけていた。校庭を通り抜けるとあの土塁が見えた。夕闇の中に低く横たわっていた。何かがそこにいるような気がした。四百年前の影が。久秀という男の影が。しかしそれはただの土の塊だった。風が吹いて雑草が揺れた。それだけだった。

「また明日も来よう。」直人が言った。葵は黙って頷いた。二人は土塁に背を向けて歩き出した。彼らの後ろで風が土塁の上を通り過ぎていった。その音は何かを語っているようだった。しかし何も聞こえなかった。ただ風の音だけが、秋の終わりの空に消えていった。

その夜、直人は机の上に広げた古地図を眺めていた。多聞山城の復元図。彼は自分で描いてみた。本丸の位置。櫓の場所。門の配置。堀の幅。計算は合わなかった。資料が足りなかった。土塁だけでは城全体の姿は見えてこなかった。しかし彼はそれでも描き続けた。久秀が見た景色を見たかった。あの高櫓の上から見た景色を想像したかった。

葵は自室で平蜘蛛の茶釜の写真を見ていた。図書館でコピーしたものだった。蜘蛛の巣の模様が写真の中で浮き上がっていた。彼女はその写真を額に入れて机の上に置いた。久秀が愛した器。その破片だけが今に残っている。彼女はその写真を見ながら茶を飲んだ。急須で入れた普通の煎茶だった。しかしその味はいつもより深く感じられた。

十一月になった。校庭の銀杏の葉が黄色く色づいた。落ち葉が土塁の周りに積もった。直人と葵は毎日のように土塁の前に立った。もう言葉は少なくなっていた。ただ立っているだけでよかった。四百年前の城があった場所に立つという事実だけで十分だった。ある日、土塁の根元に小さな花が咲いているのを葵が見つけた。名前も知らない花だった。秋の終わりに咲く小さな白い花。それが石の隙間から生えていた。久秀もこのような花を見たのだろうか。葵はその花を摘まずにそのままにしておいた。

放課後の校庭は静かだった。サッカー部の練習も終わっていた。直人と葵だけがそこにいた。夕日が長い影を落としていた。その影は土塁を越えて校舎の壁にまで届いていた。葵は言った。「もう冬やな。」直人は頷いた。空気が冷たくなっていた。息が白くなっていた。久秀がいた時代も同じ冬があった。同じ冷たい空気があった。風が土塁の上を吹き抜けた。その風は何も語らなかった。ただ風であった。しかし二人にはその風が久秀の声のように聞こえた。

(完)