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第一章(S著)

第一章(S著)

第一章(S著)

出典: note.com / 2026-05-29

​第一章:不在の父、そして崩壊の予兆

​父の記憶は、いつも夜と早朝の匂いに結びついている。

自動販売機の設置という労働に就いていた父は、朝まだ暗いうちに家を出て、街が眠りにつく頃にようやく帰ってきた。寡黙を絵に描いたような人で、家の中で声を荒げることもなければ、多くを語ることもない。

​精神を病んだ母は、家事を一切しなかった。

今思うと、父はどれほど孤独で、どれほど肉体の限界を迎えていたのだろう。夜遅くに帰宅してなお、静まり返った台所で一人、黙々と皿を洗う。数時間しか眠っていないはずの翌朝、まだ誰も起きてこない薄暗い台所に立ち、自分の作業着の横に置くためのお弁当を、不器用な手つきで自作していたのだ。

背中を丸め、静かに包丁を握る父の後ろ姿。

父は何も言わず、弁当箱の蓋を閉めた。

対する母は、どこか幼い人だった。

精神の病がそうさせていたのかもしれない。けれど母の奥には、常に言葉にならない不安定さのようなものが沈んでいた。

平成七年、阪神・淡路大震災。

母は故郷である神戸・長田で、実の母親と姉を同時に失っている。激しい火災だったと聞いた。

焼け野原になった街の中で、肉親を一度に失う。その経験が、人の心をどれほど壊してしまうのか、今の私には少しわかる。

​しかし、その脆い均衡は、私が六歳のある日、鮮血とともに破られた。

​台所で奇声をあげた母が、自らの腕に包丁を突き立てたのだ。蛇口から溢れる水のように、どくどくと赤い血が溢れ、床を染めていく。

視界が暗転するほどのパニックの中、私は八歳上の兄にすがりついた。「おにい、ママが、ママが!」

私の悲鳴を聞いた兄は、視線だけをこちらに寄越した。その口元には、薄気味悪い歪な笑みが張り付いていた。

「ほっとけ」

兄は、まるで他人の玩具が壊れたのを愉しむかのように、ニヤつきながらそう吐き捨てた。その冷徹な言葉の響きは、母の流血以上に、私の凍りついた心に深く突き刺さった。

​しばらくして、夜遅くに戻った父の手によって救急車が呼ばれ、惨劇は一時の幕を閉じた。母はそのまま精神病院へと入院することになった。

その後、父の大きな手に引かれて何度か見舞いに行った。

当時の私には、母がなぜそんな場所に閉じ込められているのか、その本当の意味は理解できていなかった。しかしながら、子供心に、そこがどんよりとした絶望の空気に満ちていることだけは、はっきりと理解していた。病院の白い廊下、すれ違う人々の虚ろな目、そして面会室の窓から差し込む光の濁り方。

なんだかよく分からないけれど、とにかく怖くて目を逸らしたかった。

​後に母から聞いた話では、私がまだ四歳か五歳の頃にも、精神がおかしくなった母が児童相談所に「自殺します」と通報し、レスキュー隊が家に押し寄せたことがあったらしい。その時、パニックで動けない母に代わって、幼い私が玄関の鍵を開けたのだという。物心つく前から、私はいつも壊れゆく日常の境界線に立たされていた。


この記事は note.com から KTBLOG に移行されました。元記事: https://note.com/famous_prawn2009/n/nc8277b6d309a