← Back to Home
note.com ·

10分、車を出すだけで、誰かの「自分で選ぶ自由」が戻ってくる。

10分、車を出すだけで、誰かの「自分で選ぶ自由」が戻ってくる。

はじめに、実例から。

初めて移動支援を利用した高齢の方がいた。必要だったのは、大げさな介護でも、遠くまでの送迎でもない。車に10分ほど乗って、坂を上がること。それだけだった。

その方は、それまで生鮮食品をすべて宅配に頼っていた。野菜も、魚も、肉も、誰かが選んだものが家に届く。もちろん、それで生活はできる。できるのだけれど——。

スーパーへ行けば、トマトを手に取る。色を見る。重さを確かめる。魚を見比べる。今日は何を食べようかと考える。そんな、誰にでもある当たり前の行為を、自分でもう一度できる。

その日は、その方が本当に喜んで、こう言った。

「こんなにありがたいことがこの街にあるなんて、信じられないくらいです」

私たちがしたのは、10分ほどの運転だ。でもその10分が取り戻したのは「移動」ではない。その人が自分で選ぶ自由だった。

「買い物に行ける」とは、どういうことか

スーパーに行くというのは、食料を手に入れる行為のことではない。

自分の足で店へ行く。季節の商品を見る。値段を見る。今日食べたいものを考える。自分の手で選ぶ。人とすれ違う。店員と言葉を交わす。

これは生活そのものだ。

宅配サービスは、本当に便利だ。これからも便利であり続けるだろう。ただ、「届くこと」と「自分で選びに行けること」は、同じではない。

高齢になって、坂道や数キロの距離を越えられなくなったとき、人は知らないうちに小さな自由を一つずつ失っていく。失った本人にさえ、それが「自由」だったと気づけないまま。

その自由を、近所の誰かが10分車を運転するだけで取り戻せる。

つるまい自治協議会の移動支援は、そういう仕組みだ。

「あなたには簡単なことが、誰かにはできない」

人間にはそれぞれ、「自分には簡単にできること」がある。

料理が苦にならない人。人と話すのが得意な人。機械を直すのが好きな人。文章を書くのが速い人。そして——車の運転がまったく苦にならない人。世の中には、かなりいるはずだ。

代表自身がまさにそうだ。長年運転しているから、車の操作をいちいち意識しない。車幅も、曲がる感覚も、駐車も、坂道も、身体の一部のように扱える。もちろん安全確認は徹底する。それでも、「10分車を運転してください」という行為そのものに、負担はほとんどない。

ここが、今回いちばん伝えたいことだ。

ドライバー側の10分と、利用者側の10分は、価値がまったく違う。

ある人にとっては「スーパーまでちょっと車を出した」だけ。でも乗っていた人にとっては、数か月ぶりに生鮮食品を自分の手で選べた日かもしれない。

ある人にとっては「歯医者まで送った」だけ。でも乗っていた人にとっては、長いあいだ諦めていた治療を再開した日かもしれない。

ある人にとっては「美容室まで10分走った」だけ。でも90歳の女性にとっては、久しぶりに鏡を見て「きれいになった」と思えた日かもしれない。

「あなたには簡単なことが、誰かにはできない」。移動支援という事業は、この当たり前の非対称性の上に立っている。そして、その溝を埋めるのに、特別な資格も、自己犠牲も要らない。要るのは、運転が苦にならない、普通のことだけだ。

もう少しだけ、エピソードを重ねる

歯医者

歯が悪い。本当は治したほうがいい。でも歯科医院まで行くこと自体が大変で、「もういい」と諦めていた。

そこへ誰かが車を出す。20分後には診察室にいる。

運転した人は医者ではない。治療もできない。それでも、医療とその人の間にあった最後の数キロを消した。結果は同じで、治療が始まっている。

美容室

90歳を超えても、100歳を超えても、髪を整えてもらったあとの女性の表情は変わる。鏡を見る。笑う。美容師と話す。

「もう歳だから、美容室なんて」と、ずっと言っていたとして。

本当に行きたくなかったのか。それとも、行けないから、行きたくないことにしていただけなのか。

この違いは、乗せたことのある人にしか分からない。そして分かってしまった人間は、もう「歳だから仕方ない」とは言えなくなる。

友人に会う

病院でも買い物でもなくていい。昔からの友人に会う。地域の集まりへ行く。お茶を飲む。花を見る。図書館へ行く。

移動支援は、「生命維持に必要な外出」だけを許可する仕組みではない。人間が人間らしく暮らすための外出を支えるものだ。用事があるから移動するのではない。会いたいから、見たいから、行きたいから移動する。それが人間だ。

ドライバー側にも、物語がある

利用者だけを主人公にしないでほしい。運転した側にも、物語がある。

最初は「近所のおばあちゃんをちょっと乗せるだけ」くらいに考えていた。ところが降りるとき、心から「ありがとう」と言われる。

その日、自分が何か大きなことをしたとは思わない。それでも帰り道、少し気分がいい。そして次第に、「これならまたやってもいいな」と思う。

この小さな満足は、感動的な美談でも何でもない。ごく普通の気分の話だ。でも、その「少し気分がいい」の積み重ねが、月1回でも年4回でも、この街の移動の数そのものになる。ボランティアが続くのは、立派な精神論のせいじゃない。続ける人が、わりと気持ちいいからだ。

探しているのは「聖人」ではない

はっきり書いておく。

つるまい自治協議会が探しているのは、自己犠牲のできる立派な人でも、福祉の専門家でも、毎週何時間も奉仕できる人でもない。

探しているのは、運転が苦にならない普通の人だ。

車が好きな人。仕事で何十万キロも走ってきた人。送り迎えをずっとしてきた人。買い物へ車で行くことが日常になっている人。運転そのものを、なんとなく楽しんでいる人。

そういう人の、「自分には何でもない10分」を探している。

「能力の余白」を、地域で交換する

もう一歩、踏み込んだ言い方もできる。

ボランティアとは、「余っている能力を、足りない場所へ渡す仕組み」のことだ。

体力がある人には簡単なこと。運転が得意な人には簡単なこと。スマートフォンが得意な人には簡単なこと。でも、別の誰かには、それが大きな壁になっている。

慈善でも何でもなく、これは地域に眠っている能力の再配置だ。言葉だけ聞くと大げさに聞こえるが、やっていることは「車のある人が、坂の下の人を上まで乗せてあげる」だけだ。

ボランティアを「重い約束」にしない

「登録したら、毎回呼ばれるんじゃないか」と不安になる人もいるだろう。その不安はもっともだ。だから、こうはしない。

将来的に登録者が100人、500人、1000人になったとしても、全員が毎週働く必要はない。

依頼が届く。「明日10時、鶴舞から学園前駅まで約15分」。それを見て、「今日は行ける」と思った人が一人手を挙げる。それでいい。

1000人が月に1回ずつ動くだけでも、月1000件の移動になる。

目指すのは、少数の献身的な人を消耗させる仕組みではない。多数の普通の人から、それぞれ20分ずつ借りる仕組みだ。無理をしない。家族を犠牲にしない。仕事を休まない。疲れている日は運転しない。その代わり、「今日なら20分くらいできる」という日に、力を貸してもらう。それで十分だ。

ボランティアは仕事だ

最後に、この話をもう一段掘りたい。

今回募集するのは「ボランティア」だが、私たちはこれを「仕事」として扱いたい。雇用という意味ではない。誰かが必要としていることを、自分の能力を使って解決する。そこに価値が生まれる。それなら、報酬が発生していなくても仕事だ。

世の中には、お金をもらうからやる仕事と、お金をもらわなくても、やったあとに満足できる仕事がある。今回募集しているのは、後者だ。

人助けをしてください、とは言わない。その代わりにこう言わせてほしい。

あなたが普段、何気なく使っている10分の運転には、想像以上の価値がある。

最後に。まずは、見に来てください

「ドライバー急募!」では終わらない。最後は静かに言わせてほしい。

まず一度、見に来てほしい。既存ドライバーの横に乗るだけでもいい。利用者を送ったあと、その人がどんな顔をするか、見てほしい。

その上で「これなら自分にもできる」と思ったら、登録してください。それで十分だ。

私たちは、立派なボランティアを探しているのではない。この街の中に、すでにいる——運転することが苦にならない人を探している。その人の20分が、誰かの生活をもう一度、広げるかもしれない。

つるまい自治協議会 移動支援について

つるまい自治協議会(奈良市・学園前エリア)では、移動支援のドライバーを募集しています。対象は鶴舞地区・学園前駅周辺。買い物、通院、美容室、友人との集まりなどへの送迎で、1件あたり10〜20分程度の運転です。予約が入ったときに通知が届き、できるときだけ手を挙げる方式。ガソリン代などの走行コストは、自治協議会側で負担します。

まずは見学から。既存ドライバーの同行も歓迎です。

詳しくは つるまい自治協議会のサイト をご覧ください。お問い合わせは事務局(070-8526-6330、受付は月・水・金の9時から12時、13時から16時)まで。登録や予約のやり取りは 公式LINE でも受け付けています。

あなたにとって何でもないことが、誰かにとってはとても難しいことだったら。それを20分貸すだけで、その人の一日が変わるなら。一度くらい、やってみませんか。