【芸術って何だろ? #89】キュビスム — ピカソとブラックが創った四次元の絵画
アヴィニョンの娘たち — ルネサンスの終わり
1907年、パリ。モンマルトルの安アパート「洗濯船(バトー・ラヴォワール)」に、一枚の巨大なキャンバスが立てかけられた。幅2四メートル、高さ2.4メートル。そこには五人の裸の女性が描かれていた。だが、彼女たちの体は、西洋美術の誰もが知っていた体ではなかった。顔はアフリカの仮面のように歪み、四肢は鋭い角に砕かれ、遠近法は消滅していた。パブロ・ピカソ、当時二十五歳。この絵に『アヴィニョンの娘たち』(Les Demoiselles d’Avignon)と名をつける。後の批評家ジョン・リチャードソンは、この一枚がジョット以来の西洋絵画で最も枢要な一枚だと呼んだ。キュビスムは、ここから始まる。
ピカソはこの絵を、バルセロナのアヴィニョー通りにあった売春宿を題材に描いた。当初の題名は『アヴィニョンの売春宿』だった。1916年、詩人のアンドレ・サルモンがサロン・ダンタンで初公開した際、より穏当な題名に改めた。モデルの五人のうち、左端の女性はエジプト美術の影響、中央の二人はイベリア彫刻、右側の二人はアフリカの仮面を参照している。ピカソはこの時点で、ルネサンス以来五百年続いた単一透視法のシステムを、意識的に壊そうとしていた。彼は親友たちに絵を見せた。ジョルジュ・ブラックは激しく嫌悪した。アンリ・マティスは悪趣味な冗談だと考えた。だがブラックはその後、この絵を何度も繰り返し研究した。彼は後に「ピカソと私は、互いに似た絵を描いた」と語っている。この二人の共犯関係が、次の七年間、キュビスムを推進する。
セザンヌとアフリカ — 二つの素材
キュビスムは真空から生まれたわけではない。二つの供給源があった。第一はポール・セザンヌの晩年作品だった。セザンヌは1906年に死んだ。1904年のサロン・ドートンヌで回顧展が開かれ、1905年と1906年にも作品が展示された。彼の描いた『サント・ヴィクトワール山』の連作で示されたのは、自然を円柱、球、円錐に還元するという思考だった。物体の幾何学的構造を分析し、複数の視点を一枚の画面に重ね合わせる。この手法をピカソとブラックは文字通り受け継いだ。第二はアフリカとオセアニアの彫刻だった。1906年から1907年にかけて、パリのトロカデロ民族誌博物館に、フランスが植民地で収集した膨大なアフリカ美術が収蔵されていた。ピカソは1907年6月にこの博物館を訪れた。彼は後に「私があの仮面を理解した時、絵画の本当の意味を理解した」と語っている。アフリカ美術は、写実ではなく本質を抽出する表現方法を提供した。セザンヌは技術の範型を、アフリカは哲学の範型を与えた。
ブラックとピカソ — 共犯の七年(1909-1914)
1908年、ブラックはマルセイユ近郊のレスタークで風景を描いた。『レスタークの家々』の連作。建物を角張った体塊として扱い、遠近法の奥行きを圧縮した。この作品群を同年11月、画商ダニエル=ヘンリー・カーンワイラーの画廊で展示した。批評家のルイ・ヴォークセルは、ブラックの風景を見て「すべてを幾何学的な立方体(キューブ)に還元している」と書いた。「キュビスム」という語の由来は、この軽蔑的な批評から来ているとされている。ただし、詩人のギヨーム・アポリネールが1911年にこの語を公式の運動名として定着させたとも言われる。いずれにせよ、1909年から1914年の第一次世界大戦勃発まで、ピカソとブラックはほぼ毎日、互いのアトリエを行き来した。彼らの絵画は時期によって判別がつかないほど似通っていた。ブラックはピアノを弾き、ピカソはスペイン語で独り言を言った。二人はコルを飲み、キャンバスに向かった。1911年、彼らはパリの北、セリジーの村に一緒に滞在し、同じ題材を描いた。歴史上、これほど密接に協力した画家の二人組は他にない。
分析的キュビスム — 分解の工学(1909-1912)
1909年から1912年の期間を、美術史は分析的キュビスムと呼ぶ。目標は物体を分解し、多视角から同時に描写することだった。色彩は抑制された。茶色、灰色、黒、黄土色。画面はほぼ単色に近い。輪郭線は砕かれ、面と面が重なり合い、光は一方向からではなく複数の方向から入ってくる。ピカソの『カーンヴァイラーの肖像』(1910年)では、画商の顔は角張った面の集合体に還元され、背景の幾何学的構造と融合する。ブラックの『ヴァイオリンとパレット』(1909-1910年)では、楽器が識別可能な断片に解体され、階段状の形態で再構成される。この時期の絵画は、しばしば暗く、判読しにくく、観客の忍耐を試す。だが、観察すればするほど、隠れた物体が浮かび上がってくる。この技法の核にあったのは、対象を一面からではなく多方面から同時に見るという原則だった。空間を一枚の平面に圧縮しつつ、時間の要素を導入する。一枚の絵の中に、複数の瞬間の視覚情報を集約する。これは絵画における「同時性」の実験だった。
紙の貼り付け — 合成的キュビスムの誕生(1912)
1912年9月、ブラックはアヴィニョン近郊のセルクで過ごしていた。ある日、彼は模造木材の壁紙を買った。それをキャンバスに貼り付け、その上に絵を描いた。『果物皿とグラス』(Fruit Dish and Glass, 1912年)。これがパピエ・コレ(papier collé)、つまり「貼り付けられた紙」の最初の例だった。ブラックは壁紙、新聞、楽譜の切れ端をキャンバスに貼った。現実の物質が、描かれた幻影と並んで画面に登場する。これは美術史上の断絶だった。西洋絵画は五百年間、対象を「描く」ことで再現してきた。今、対象そのものの一部を画面に貼り付ける。再現と現実の境界が溶けた。ピカソは即座にこの技法を取り入れた。彼は新聞紙、包装紙、布を組み合わせた。合成的キュビスム(1912-1914)はここから始まる。分析の時代が分解だったとすれば、合成の時代は再構築だった。色彩が戻る。明るい青、赤、緑が画面に現れる。点描の技法が導入される。そして、何より、コラージュという全く新しい表現形式が、美術の語彙に加わった。現代美術におけるコラージュ、アッサンブラージュ、さらにはコンセプチュアル・アートの根源は、この1912年の壁紙にある。
サロン・キュビストと黄金分割
ピカソとブラックは、二人で実験を続けた。だが彼らは、サロンに作品を出展しなかった。彼らの作品の流通を一手に引き受けたのは、画商ダニエル=ヘンリー・カーンワイラーだった。彼の画廊は小さく、顧客も限られていた。結果として、一般大衆がキュビスムに触れる機会は、別のルートから来た。1911年春、サロン・デ・ザンディパンダン。ジャン・メッツァンジェ、アルベール・グレーズ、ロベール・ドローネー、アンリ・ル・フォーコニエ、フェルナン・レジェ、マリー・ローランサンが、キュビスム的絵画を一斉に展示した。アポリネールがキュレーションに介入した。この展示は醜聞を引き起こした。大衆は怒り、批評家は困惑した。だが、これがキュビスムを一般の注目に晒した最初の機会だった。これらの画家は「サロン・キュビスト」と呼ばれる。彼らはピカソやブラックとは異なり、理論的な文章を書き、公開の場で運動を主張した。1912年10月、彼らはさらに大規模な展示を組織した。「黄金分割展」(Salon de la Section d’Or)。パリのギャラリー・ラ・ボエットで。参加者は200人以上。これは第一次世界大戦前のキュビスム最大の公開展示だった。メッツァンジェとグレーズは同年、『キュビスムについて』という理論書を出版した。これがキュビスム最初の体系的な理論文献となる。彼らはピタゴラスの黄金比、数学的調和、そして四次元幾何学への言及を、運動の根拠として提示した。
四次元とアインシュタイン — 同時代の科学との共振
1910年前後のパリの知的サロンでは、数学者アンリ・ポアンカレと数学物理学者の著作が話題だった。四次元幾何学、非ユークリッド幾何学、そして空間と時間の相対性は、芸術家たちの間でも議論されていた。メッツァンジェは『キュビスムについて』の中で、物体を三次元の枠に固定せず、四次元的な視座から捉えることを主張した。ただし、キュビストたちがアインシュタインの特殊相対性理論(1905年)を直接読んでいたという証拠は薄い。彼らが参照していたのは、ポアンカレの科学哲学と、ガスター・ド・ジョワの数学的推測だった。だが共振はあった。アインシュタインが空間と時間を一つの連続体として扱ったのと同じ時期に、キュビストたちは一枚の絵の中に複数の視点と複数の時刻を共存させていた。物理学者の概念と画家の直感は、互いに知らずに並行走行していた。後世の美術史家は、キュビスムと相対性理論を「20世紀初頭の二つの革命的空間認識」として並置する。この並列は、後の抽象絵画、構成主義、さらにはモダニズム建築の理論的基盤となる。
フェルナン・レジェ — 機械の詩人
フェルナン・レジェ(1881-1955)は、キュビスムの中で異彩を放つ存在だった。彼は対象を面に分解するのではなく、円筒と管に分解した。この手法は「チュビスム(tubism)」と呼ばれる。1917年の絵画『カード遊びをする兵士たち』では、人間の体が金属的な円筒の集合体として描かれる。レジェは第一次世界大戦に従軍し、前線で砲兵として働いた。この経験で彼は機械の美しさに取り憑かれた。戦後、彼の作品はより明るく、より色彩的になった。『機械の要素』(1918年)や『三人の女性(ル・グラン・デジュネ)』(1921年)では、人間と機械の境界が曖昧になる。レジェのキュビスムは、都市と工場と労働の美学を内包していた。彼は後に映画『機械のバレエ』(Ballet Mécanique, 1924年)を制作する。これは実験映画史の古典となる。
スカルプチュアへの翻訳 — アルヒペンコとリプシッツ
キュビスムは平面を超えた。ウクライナ出身のアレクサンダー・アルヒペンコ(1887-1964)は、1912年に『歩く女性』を制作した。ブロンズとプラスターの彫刻だが、人体を幾何学的な面に分解し、空洞を積極的に活用した。立体の中に「穴」を開けることで、空間そのものを形態の一部とした。これは彫刻史上の革新だった。リトアニア出身のジャック・リプシッツ(1891-1973)は、1915年頃からキュビスムを立体的に展開した。彼の『ギタリスト』(1915年)や『水差しを持つ人物』(1916年)では、人体が結晶のような多面体に再構成される。リプシッツは1920年に画廊「レフォール・モデルヌ」で初個展を開いた。キュビスム的彫刻は、後の構成主義彫刻、さらには現代のインスタレーション美術に直接的な影響を与えた。彫刻とは塊を彫るものだという前提が、ここで初めて、真剣に問い直された。
キュビスムの終わり — 第一次世界大戦と純粋主義
1914年8月、第一次世界大戦が勃発した。ブラックはフランス軍に召集された。ピカソはスペイン人として、そして中立国の市民として、パリに残った。だが二人の日常的な協力関係は、この時点で物理的に終わった。ブラックは1915年5月に頭部に重傷を負い、一時的に視力を失った。1917年に復帰した時、キュビスムは既に変質していた。戦後、ピカソは新古典主義に転向した。ブラックはより個人的で、抒情的な絵画に移行した。キュビスムは死んだわけではない。だが、その最初の革命的衝動は、戦場で消耗した。1918年、建築家のル・コルビュジエ(当時はシャルル=エドゥアル・ジャンヌレ)と画家のアメデ・オザンファンが、『キュビスムの後に(Après le Cubisme)』を出版した。彼らはキュビスムを批判的に継承し、純粋主義(Purism)を提唱した。対象を基本的な形態に還元し、装飾的細部を排除する。だが、キュビスムのような分解ではなく、明快で機械的な秩序を求めた。純粋主義は1925年まで続き、その美学はル・コルビュジエの建築思想に直接流れ込む。一方で、キュビスムの根本的な手法、多視点の統合、幾何学的抽象化、コラージュの戦略は、抽象絵画、未来派、構成主義、デ・ステイル、ダダ、そしてアール・デコに吸収された。20世紀のモダニズムは、全方向に、キュビスムのDNAを運んでいる。
建築とデザインへの拡散
キュビスムの影響は絵画と彫刻に留まらなかった。1912年、アンドレ・マールがバレエ・リュスのために『パラード』を制作した際、ピカソが舞台美術と衣装を担当した。キュビスム的な角張った衣装が、踊り手の体を幾何学的オブジェクトに変えた。1917年の初演は醜聞だったが、舞台美術の歴史を変えた。建築では、チェコのキュビスム建築(1911-1914)がプラハに現れた。ヨゼフ・ゴチャールとパヴェル・ヤナークは、建築物に角張った面とクリスタル状の形態を適用した。プラハの「キュビストの灯り」は、現在も現存する。デザインの分野では、1920年代のアール・デコが、キュビスムの幾何学的語彙を消費財に適用した。家具、陶器、ラジオ、自動車。キュビスムの面は、百貨店の棚に並ぶ商品にまで浸透した。映像では、レジェの『機械のバレエ』のみならず、ウォルター・ルットマンの『ベルリン — 大都市の交響楽』(1927年)や、ジガ・ヴェルトフの『カメラを持った男』(1929年)に、キュビスム的な多視点編集が応用された。映画のモンタージュ理論は、多視点同時性の原則を、時間軸に翻訳したものと言える。
評価の変遷 — 醜聞から正典へ
1907年、アヴィニョンの娘たちは嫌悪された。1911年、サロン・キュビストの作品は嘲笑された。1912年、黄金分割展は批評家を分裂させた。だが、1913年、アメリカのアーモリ・ショーでキュビスム的作品が展示されると、議論は大西洋を渡った。マルセル・デュシャンの『階段を降りる裸体第2号』(1912年)が、キュビスムと未来派の混血として物議を醸した。第一次世界大戦後、キュビスムは次第に正典の地位に移行した。1939年、ニューヨーク近代美術館が『キュビスムと抽象芸術』展を開催。キュリエーターのアルフレッド・バーは、キュビスムを20世紀美術の出発点として位置づけた。この枠組みは、現在まで美術史の標準的な叙述となっている。1960年代以降、ポストモダン美術史はこの枠組みを批判的に見直した。キュビスムを「純粋な形式的革命」として神格化することへの疑義が出された。植民地主義とアフリカ美術の収奪の問題、ジェンダーの視点からの再読、そして市場とキュビスムの関係。だが、これらの批判を経ても、キュビスムが20世紀の視覚文化の骨格を形作ったという事実は、揺るがない。
キュビスムとは何だったのか
キュビスムは、一つの問いを発した。物体を一面から見る必要はあるのか。答えは、否だった。一枚の絵は、一つの瞬間、一つの視点、一つの光源に縛られる必要はない。対象を分解し、再構成し、多視点を統合し、現実の物質を画面に貼り付ける。これらは全て、絵画が幻影を生産する手段であるという前提への、直接的な挑戦だった。キュビスムは、絵画を「世界の窓」から「世界の実験室」に変えた。ピカソとブラックは、七年間、その実験室で毎日働いた。彼らの実験の成果は、コラージュという一つの形式として結実し、その後の全ての美術の語彙に組み込まれた。キュビスムは死んだ。だが、その遺伝子は、今も、美術館の壁、映画の編集、建築のファサード、そしてスマートフォンの画面レイアウトの中に、生き続けている。
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