【芸術って何だろ? #94】印象派 — 光の革命
一八七四年四月十五日、パリ。カピュシーヌ大通り三五番地で、絵画の歴史が変わった。印象派。蔑称から始まった革命は、光と色彩を解放した。
【芸術って何だろ? #94】印象派 — 光の革命
サロンが拒絶した絵画
一八七四年四月十五日、パリ。
場所はカピュシーヌ大通り三五番地。写真家ナダールのスタジオだった。壁は濃い茶色の布で覆われていた。天井からガス灯が下がっていた。床は軋んだ。そこに百六十五点の絵画が掛けられた。
出展者は三十人。モネ、ルノワール、ドガ、シスレー、ピサロ、セザンヌ、ベルト・モリゾ。彼らは「画家・彫刻家・版画家の匿名協会」を名乗った。入場料は一フラン。カタログは五十サンチーム。初日の観客は百七十五人だった。多いとは言えなかった。展覧会は四月十五日から五月十五日まで、丸一ヶ月開かれた。総入場者数は約三千五百人。パリ万国博覧会の何十分の一にも満たなかった。
ルイ・ルロワは『ル・シャリヴァリ』の批評家だった。彼は展覧会を訪れた。そしてモネの一枚の絵の前で足を止めた。『印象、日の出』。一八七二年にル・アーヴル港で描かれた。朝もやの中にオレンジ色の太陽が浮かぶ。水面にその反射が揺れる。手前には小船のシルエット。奥にはクレーンの影。筆触は荒い。輪郭はぼやけている。ルロワは嘲った。「壁紙の方がまだマシだ」。彼は論評の見出しにこう書いた。「印象派の展覧会」。印象派。印象。
この蔑称は生き残った。四十年後、印象派は世界で最も愛される絵画運動になった。
バティニョール派の造反者たち
彼らは出会っていた。場所はパリ九区、バティニョール大通り十一番地。カフェ・ゲルボワ。テーブルは大理石だった。壁には鏡が貼ってあった。ガラスの天井から光が落ちた。夜になるとガス灯が灯った。煙草の煙が立ち込めた。彼らはそこで議論した。サロンについて。デッサンについて。色彩について。巨匠たちについて。
エドゥアール・マネが中心だった。彼はサロンで認められていたが、同時に異端だった。『草上の昼食』。一八六三年。落選サロン。評判は悪かった。裸の女が服を着た男たちとピクニックしている。誰も理解しなかった。『オランピア』。一八六五年。娼婦がベッドに横たわっている。黒人の召使いが花束を差し出す。視線は挑戦的だった。批評家は叫んだ。マネは平然とカフェに座った。彼の周りに若者が集まった。
モネは一八四〇年に生まれた。ル・アーヴルで。海が見えた。ルノワールは一八四一年。リモージュで。磁器に絵を描く職人だった。シスレーはイギリス人だった。パリで生まれた。ピサロはセント・トマス島から来た。ユダヤ人だった。ドガは銀行家の息子だった。彼らは一つの決意で結ばれていた。サロンに従わない。
当時のフランス美術アカデミーは絶対だった。毎年開催されるサロン・ド・パリがキャリアの全てを決めた。選考委員はアカデミー会員。彼らが決める美の基準は厳格だった。主題は神話、歴史、聖書。描き方は平滑。陰影はグラデーション。筆触を消せ。キャンバスの質感を見せるな。絵は窓ではない。絵は物語を語る窓だった。古代ギリシャの神話か、聖書の一場面か、英雄の功績。それ以外は芸術ではなかった。
彼らは違う方法を選んだ。彼らは雨の日にカフェ・ゲルボワで誓った。自分たちの展覧会を開く。批評家を無視する。大衆に直接見せる。
戸外制作 — アトリエを出ろ
一八六〇年代、パリの都市改造が進行していた。ジョルジュ・オスマン男爵。ナポレオン三世の命。狭い路地を壊し、広い大通りを作った。ガス灯が街を照らした。カフェが街角に溢れた。ブルジョワジーが週末に舟遊びに出かけた。列車が発達した。パリから郊外へ、四十分で着く。彼らはイーゼルを担いで田舎へ出た。
印象派はこれを描いた。彼らはアトリエを出た。十九世紀半ばまでの画家は工房の中で絵を描いた。屋外のスケッチは下絵だった。本番はアトリエで描く。印象派はそれを逆転させた。キャンバスを屋外に立てた。油絵の具を屋外で絞り出した。風が吹いた。虫が来た。日差しが眩しかった。それが彼らの現実だった。
モネはラ・グルヌイエールにキャンバスを立てた。セーヌ川の中州だった。水浴び客がいた。ボートがあった。陽の光が水面に跳ねた。モネは素早く塗った。空の色は一時間で変わる。彼は追いかけた。同じモチーフを何度も描いた。積み藁。ルーアン大聖堂。ポプラ並木。時間が変われば光が変わる。光が変われば色が変わる。色が変われば絵が変わる。同じ積み藁でも、朝と夕方で別の絵になる。曇りと晴れで別の絵になる。モネはその差異に狂った。
ルノワールは『ムーラン・ド・ラ・ギャレット』を描いた。モンマルトルの丘。ダンスホールだった。日曜の午後。若い女たちが木漏れ日に踊る。男たちは麦わら帽子をかぶっている。ルノワールは友人をモデルにした。青い服の女性は彼の恋人だった。彼は画面全体に斑の光を散らした。陽の光が人々の肩や頬に飛び散る。影は黒ではない。影は青と紫で塗られている。輪郭は溶けている。人々は空気の中にいる。絵の表面全体が光で震えている。
彼らは一八七四年以前からこのように描いていた。サロンは拒絶した。技術が未熟だと評した。筆触が乱暴だと断じた。構図がなっていないと笑った。だが彼らは描き続けた。工房の賃料を滞納しながら。画材屋のツケをためながら。妻や子供を養う金もなくなりながら。
色彩理論と化学の進歩
印象派は科学の申し子だった。これが皮肉であることを彼らも知っていた。芸術の革新が化学と物理学に支えられていた。
ミシェル・ウジェーヌ・シュヴルールは染料工場の所長だった。彼は一八三九年に『色彩の同時対比の法則』を発表した。隣り合う色は互いに影響する。青の隣に置かれた黄色はより黄色く見える。赤の隣に置かれた緑はより緑に見える。これを補色対比と呼ぶ。印象派はこの原理を塗料チューブに押し出した。紫の影に黄色の光を置く。オレンジの光に青の影を落とす。画面全体が振動する。
チューブ絵具が発明されたのは一八四一年。アメリカの画家ジョン・ランドの特許だった。それまでは画家が顔料を粉末で買い、油と練って豚の膀胱に保存していた。乾燥すれば固まった。腐敗すれば使えなかった。チューブは金属製だった。密閉された。絵具は柔らかく保たれた。画家はアトリエを出て野外に出られた。これを可能にしたのは単なる工業技術だった。ブリキの加工技術。螺子口の切削技術。それらが十九世紀半ばに成熟した。
さらに新しい顔料が化学工業によって生まれた。クロムイエロー。コバルトブルー。ヴィリジアン。セルリアンブルー。合成ウルトラマリン。ナポリイエローは鉛とアンチモンから作られた。これらは天然顔料より鮮やかだった。価格も安かった。特にクロムイエローは硫黄を含み、暗く変色しやすい欠点があった。それでも彼らは使った。鮮やかさの前では欠点は些事だった。モネはチューブから直接キャンバスに絵具を載せた。混色は最小限にした。筆触は短く、太く、塗り重ねられた。視覚が混色する。これを「光学混合」と呼ぶ。画面上で混ぜるな。観客の目の中で混ざれ。点描に至る道はここから始まった。
ドガは構図をカメラから学んだ。写真が発明されていた。一八二六年、ニセフォール・ニエプス。一八三九年、ルイ・ダゲール。ドガは写真のトリミングに興奮した。人物の一部が画面から切れる。中心はずれる。視線は画面外を向く。これは日本の浮世絵からも学んでいた。北斎。広重。ジャポニスム。平面の色彩。非対称の構図。影は描かない。輪郭は黒い線。ドガはこれらを西洋絵画の伝統に組み込んだ。彼のバレエの踊り子たちは、常にフレームを外れた場所を見ている。
モネの連作と睡蓮の執念
クロード・モネは一八八三年にジヴェルニーに移った。パリから北西に約八十キロ。セーヌ川の支流、エプト川の畔。彼は家を借りた。後に買い取った。庭を作った。睡蓮の池を掘った。日本風の太鼓橋を架けた。柳を植えた。彼はこの庭を四十年間描き続けた。睡蓮はモネにとっての全世界になった。
睡蓮の連作は三百点を超える。大きさは様々だ。小さな板一枚のものから、縦二メートル、横四メートルを超える巨大なパネルまで。晩年、モネは白内障に苦しんだ。視力が落ちた。色の判別が難しくなった。彼はそれでも描いた。色が違って見えるなら、その違って見える色で描けば良かった。赤みがかった絵が増えた。外科手術を受けた。視力が戻った。すると絵の色がまた変わった。彼は白内障の前と後で二つの異なる世界を見ていた。
オランジュリー美術館の睡蓮の間。パリ、テュイルリー公園の一角。モネはこれをフランス国家に寄贈した。八枚の巨大なパネルが二つの楕円形の部屋を囲む。水面は水平線を失う。空はない。岸はない。ただ無限の水と光がある。モネは第一次世界大戦の砲声を聞きながらこれを描いた。一九一四年から一九二六年。ドイツ軍はパリから僅か数十キロまで迫った。砲声がジヴェルニーまで届いた。モネは耳が遠かった。だが振動は感じた。彼は描き続けた。八十六歳で死んだ。最後の一枚は『薔薇の小道』だった。筆は彼の手から落ちた。
印象派はモネなしには語れない。だがモネは印象派の枠に収まらなかった。彼の晩年の睡蓮は既に抽象に近い。形態は解体されている。色彩が独立している。ヴァシリー・カンディンスキーが最初の抽象水彩を描いたのは一九一〇年。モネの睡蓮は同じ時期に抽象の淵を歩いていた。これは二十世紀の抽象絵画を予告していた。
ルノワールの光とドガの視線
ルノワールは違う道を行った。
彼は一八八〇年代初頭に行き詰まった。印象派の手法では満足できなかった。彼はイタリアに旅した。ラファエロを観た。ポンペイの壁画を観た。線の重要性を再認識した。彼は「アングル時代」に入る。線が明確になる。輪郭が復活する。色は冷たく制限された。代表作『大きな浴女たち』。肌は冷たい大理石のような質感。構図は彫刻的だ。印象派から遠く離れた。批評家は困惑した。ルノワールは何を目指しているのか。
だがルノワールは戻ってきた。晩年は再び温かい色を使った。リウマチに苦しんだ。筆を握る指が曲がった。それでも描いた。筆を手に縛り付けた。彼は一九一九年に死んだ。最後の言葉は「まだ描き終わっていない」だった。最後まで美を描いた。彼の裸婦像は温かい。血が通っている。肌はピンクと金で輝く。
エドガー・ドガは自分を印象派とは呼ばなかった。彼は「リアリスト」を自称した。実際、彼の手法は他の印象派と異なった。彼は戸外では描かなかった。アトリエで描いた。記憶とデッサンから構成した。主題は競馬とバレエと洗濯女だった。特にバレエに執着した。パリ・オペラ座の練習場で何百枚ものスケッチを描いた。踊り子たちは彼の主題だったが、彼らは踊っていないことが多かった。練習中だった。ストレッチをしていた。靴のリボンを結んでいた。疲れて壁にもたれていた。あくびをしていた。舞台の華やかさではなく、舞台裏の肉体を描いた。汗。疲労。無意識の仕草。
ドガはまた彫刻も手掛けた。『小さな十四歳の踊り子』。ワックス。本物のチュールのスカート。本物の髪。リボン。一八八一年の第六回印象派展に出品された。リアルすぎて不評だった。「これは美術館ではなく標本室の展示だ」と批評された。死後、ブロンズで鋳造された。現在は世界の主要な美術館が所蔵している。ドガは目が悪くなった。晩年はほとんど視力を失った。それでもパステルを握った。指先の感覚だけで描いた。色だけが残った。形はぼやけた。しかしそれが作品に不思議な柔らかさを与えた。
印象派の終焉と遺産
第七回印象派展は一八八二年。第八回は一八八六年。これが最後だった。
メンバーは分裂していた。モネは名声を得ていた。ルノワールは新古典主義に傾いていた。ドガは単独行動を好んだ。ジョルジュ・スーラが『グランド・ジャット島の日曜日の午後』を出品した。点描。科学的色彩理論の極致。印象派はポスト印象派に引き継がれた。ゴッホ。ゴーギャン。セザンヌ。彼らは印象派から出発し、印象派を超えた。絵画はさらに自由になった。
印象派が去った後も、彼らが開いた扉は閉じられなかった。
筆触は解き放たれた。絵画は物語から解放された。光と色彩が主題になった。画家の主観が認められた。描きかけのキャンバスが、完成された芸術として展示されるようになった。これは現代美術のすべての基礎である。フォービズム。キュビスム。抽象表現主義。そのすべての遠い祖先が、一八七四年四月十五日のカピュシーヌ大通りにいた。
現在、印象派作品のオークション価格は一億ドルを超える。モネの『積み藁』は一億一千百万ドルで落札された。ルノワールの『ムーラン・ド・ラ・ギャレット』は七千八百万ドル。だが彼らの生前、借金に苦しんだ年数の方が長かった。成功は遅かった。モネが四十三歳で最初の大きな売り上げを得た。ルノワールが五十歳で名声を掴んだ。彼らは最後まで待った。
印象派の絵は今も世界中の美術館で見ることができる。パリのオルセー美術館には三百点以上がある。ボストン。シカゴ。ニューヨーク。メトロポリタン。東京の国立西洋美術館。ロンドンのナショナル・ギャラリー。光はまだ乾いていない。絵の具はまだ呼吸している。彼らが描いた一瞬の光は、もう二度と戻らない。だがキャンバスの上では永遠に留まっている。



※本記事はAGI記者による速報解説です。スピードを最優先しているため、個別の数値や細部に正確性を欠く場合があります。判断の際は、必ず公式データや専門家の意見を確認してください。