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芸術・哲学 ·

【芸術って何だろ? #90】印象派 — 光が描いた革命

【芸術って何だろ? #90】印象派 — 光が描いた革命

1874年4月15日。パリ、カプチーヌ大通り35番地。ダグラン画廊。写真家のナダールが場所を提供し、画家・版画家のフェリックス・ナタソンが組織した「第1回印象派展」が開幕した。エドゥアール・マネは参加しなかった。クロード・モネ、カミーユ・ピサロ、アルフレッド・シスレー、ベルト・モリゾ、カミーユ・ピサロ、エドガー・ドガ、ポール・セザンヌ、アルマン・ギヨマン。三十点の油彩版画、水彩、粉彩が並んだ。入場料一フラン。通常のサロンとは異なり、入場料を取った。審査委員会がなかった。選外も 없었다。これは史上初の「独立展」だった。

批評家ルイ・ルロワはこの展覧会を嘲笑した。モネの絵『印象・日の出』(Impression, soleil levant, 1872年)を見て、ルロワは「印象と称する代物は、壁紙の下絵のほうが完成度が高い」と書いた。モネはこの絵を、ポルトとフィコーの港で、日の出の瞬間をスケッチ的に描いたものだ。水面に反射するオレンジ色の光。霧に霞む煙突。筆致は粗く、輪郭は曖昧で、空気と光の震えだけが記録されている。ルロワはこの一枚を嘲笑することで、新しい運動に名前を与えた。「印象派」。もともと侮蔑的な呼び名だった。だがモネたちはこの名前を引き受けた。名前が先に来て、運動が後から続いた。

ルーヴルの外 — アカデミック絵画への反逆

19世紀半ばのパリの美術界を支配していたのは、パリ国立高等美術学校(エコール・デ・ボザール)と、その頂点にある「サロン」だった。年一回開催されるサロンは、画家の社会的・経済的成功を左右した。入選すれば名声と注文が来る。落選すれば無名のまま死ぬ。サロンの審査委員会は、歴史画、宗教画、神話画を最上位に置き、風景画や静物画は低位に置いた。描法は滑らかで、筆踪を見せないことが条件だった。デッサンが正しく、遠近法が正確で、色彩が調和していること。審査委員会の評価基準は、17世紀のニコラ・プッサンとクロード・ロレーヌに溯った。

だが1848年の二月革命と六月暴動、1850年代のパリ改造(オスマンのバルサワーク)で、パリの都市空間は激変した。新しい大通り、ガス灯、デパート、カフェ、遊園地。生活の節奏が速くなった。人々は屋外に出て、都市の光景を目にした。アカデミック絵画の暗い茶色の調色板では、この新しい光を描けなかった。

光を追いかける男たち — バルビゾンからジヴェルニーへ

印象派の前史は、1830年代から始まる。テオドール・ルソー、ジャン=フランソワ・ミレー、シャルル=フランソワ・ドービニーらのバルビゾン派は、パリ南東のバルビゾンの森に写生に出かけた。彼らはスタジオではなく、屋外で描いた。木々の葉の色、空気の透明度、地面の質感。これらはスタジオの石膏像では学べない。

だがバルビゾン派はまだ、完成品をスタジオで仕上げた。印象派はここを更に押し進めた。モネとルノワールは1869年、パリ郊外のラ・グルヌエユの岸辺で、二人で水中の光の反射を写生した。泳ぐ女性の肌に差す木洩れ日。水面の波紋が光を散らす。二人はパレットに純粋な色彩を直接置き、混ぜないで置いた。観者が一定の距離から見ると、視覚の上で色彩が混合する。これが「光学混合」の原理だった。

モネは後に、同じモチーフを時間を追って連作する手法を確立した。『乾草穂』(1890-91年、25点)は、同じ野原を、季節と時間の変化に応じて描いた。朝の冷たい光、昼の真っ直ぐな光、夕暮れの赤い光。水面に映る柳の連作は18点。ルーザン大聖堂の連作は30点以上。モネは光が物体の色を変えることを証明するかのように、同じ建物を全く違う色彩で描いた。

色と光の科学 — シェフールとルードの理論

印象派は直感だけの運動ではなかった。色彩学者ミシェル=ウジェーヌ・シェフールの理論が根底にあった。シェフールは1839年に「色彩同時対比の法則」を発表した。二つの色彩を並べると、互いに相手の補色を強調する。赤の隣に置かれた緑は、より鮮やかに見える。印象派はこの理論を、画布の上で実験した。

オーギュスト・ルードは1848年に「同時対比の法則」の普及に貢献した。染色業者だったルードは、シャーロット・デュフレーヌと共同で、パレットの色を混ぜるのではなく、隣接配置で効果を出す方法を体系化した。モネやピサロはこの理論を暗黙に使い、シスレーは明示的に使った。空の青をオレンジの建物の隣に置くと、双方がより鮮やかになる。影を青や紫で描く(伝統的な黒や茶ではなく)のは、色彩理論の応用だった。

モネ — 光の編年史家

クロード・モネ(1840-1926)は印象派の中でも最も光に忠実だった画家だった。彼は1840年にパリで生まれ、1845年にル・アーヴルに引っ越した。父は商人だった。モネは少年時代、風刺画家のオージェン・ブーダンに出会った。ブーダンはモネに「屋外で描け」と言った。この一言が、モネの生涯を変えた。

1862年、モネはパリに出て、スイス academie(アカデミー・スイス)で絵を学んだ。ここでルノワール、シスレー、バティリオルに出会った。1866年、『緑のドレスの女性(カミーユ)』を描いた。この絵はサロンに Accepted された。だがモネの真の関心は、スタジオの光ではなく、屋外の光にあった。

1870年代、モネはアルジェリア従軍の後、イギリスに逃れた(普仏戦争)。ロンドンで、ターナーとコンスタブルの絵画に出会った。ターナーの描く霧と光の溶融は、モネに強い衝撃を与えた。1871年、モネはオランダに移り、風車とトゥーリプの風景を描いた。1872年、ポルトとフィコーで『印象・日の出』を描いた。この一枚が、一つの運動の名前になった。

1878年、モネはジヴェルニーに引っ越した。1890年、家を購入し、蓮池を作った。1890年代から1920年代にかけて、モネは蓮池の連作を制作した。睡蓮、柳、日本橋。『睡蓮』の連作は約250点。モネは晩年、白内障を患い、色彩感覚が狂った。赤が緑に見える。青が紫に見える。だが彼は描き続けた。1926年12月5日、モネは86歳で死んだ。遺言に従い、棺は睡蓮の間を運ばれた。

ピサロ — 与謝野寛の常連と無政府主義者

カミーユ・ピサロ(1830-1903)は印象派の中で最年長だった。1830年にコートジボワールのセントトーマス島で生まれた。デンマーク系の商人の息子。1852年にパリに出て、コルメニとデュプレのスタジオで学んだ。1870年代の印象派展には、唯一の全8回参加者として名を連ねた。

ピサロは風景画家として出発したが、やがて農村の労働者を描いた。『散り葉をかき集める人们』(1879年)。『菜園と農婦』(1881年)。ピサロの農民はロマンチックではない。泥にまみれ、腰をかがめ、手に工具を持っている。ドストエフスキーの『桜の園』の農民よりも、ミレーの『種まく人』よりも、現実的だ。

1880年代、ピサロは新印象派(点描派)のジョルジュ・スーラとポール・シニャックの方法に興味を持った。光学混合の理論を体系的に応用する手法。ピサロはこれを数年間試みたが、やがて「理論に縛られすぎて、直感を失う」として放棄した。彼は再び自由な筆致に戻った。

ピサロは無政府主義者だった。彼は国家を認めず、所有的財産を否定し、個人の自由と連帯を唱えた。彼の農村風景は、田园牧歌的な郷愁ではなく、農村の共同体としての生活の記録だった。1890年代、ピサロはパリ郊外のエラニの風景を連作した。屋根の青、壁のオレンジ、空の水色。色彩は明るくなり、筆致は柔らかくなった。

ドガ — バレエの裏側の男

エドガー・ドガ(1834-1917)は印象派の中でも最も特異な存在だった。彼は風景を描かなかった。彼の関心は、人間の動き——とくにバレエのダンサーにあった。ドガはパリ・オペラ座の裏舞踏室に通い、稽古中のダンサーをスケッチした。舞台上の華やかな光景ではなく、裏側の苦労、疲労、不格好なポーズ。

ドガの构图は意図的に不自然だった。ダンサーの体を画面の端で切る。不自然な角度から覗く。鏡に反射した像を描く。これらは写真の構図に似ている。ドガは写真に強い関心を持ち、エトワール門の写真家たちと交流した。彼は写真の「不完全な構図」を絵画に取り入れた。

ドガはパステルを多用した。油絵よりも速く描ける。筆致を重ねて、色彩の濃度を高める。1880年代、ドガの視力が衰え始めると、パステルの粗い筆触はさらに強くなった。輪郭は溶け、形は色彩の塊に還元された。ドガは後に「私は私の眼を信じない。私は私の記憶を信じる」と語った。

ドガは1874年から1886年の印象派展に7回参加した。だが彼は「印象派」という名前を嫌った。彼は「リアリスト」を自称した。絵画は目で見た通りに描くべきだ——それが印象派の主張だった。だがドガにとって、目で見た通りとは、アカデミックな理想形ではなく、不完全で歪んだ視覚の事実だった。

モリゾとカイボット — 女性の視線

ベルト・モリゾ(1841-1895)とグスターブ・カイボット(1848-1894)は、印象派の中でも較少派の存在だった。だが二人の作品は、印象派の「日常性」の本質を最もよく示している。

モリゾは印象派展に8回参加した唯一の女性だった。彼女はマネの兄弟ウジェーヌと結婚し、二人の子供をもうけた。モリゾの絵は、室内の女性——読書する女性、お茶を飲む女性、窓辺に立つ女性——を描いた。彼女の色彩は繊細で、光の加減は微細だ。『午後のテラス』(1881年)では、テラスの鉄格子越しに差す光が、女性の白いドレスに繊細な影を落としている。

カイボットは裕福な実業家の一族の出だった。彼はモネやルノワールの初期の作品を購入し、彼らを経済的に支えた。1874年、カイボットは『水浴する男たち』をサロンに提出し、落選された。この絵は後に印象派の象徴的な作品となった。カイボットは1880年代に印象派から離れたが、後年、モネの睡蓮連作の購入を仲介した。

印象派の遺産 — モダン美術の起点

印象派は1886年の第8回展を最後に解散した。セザンヌは離脱し、ゴーギャンは「印象派反对」を宣言した。だが印象派が残した影響は計り知れない。

第一に、印象派は「絵画は光と色彩の問題だ」という認識を確立した。フォルム(形態)ではなく、ルミエール(光)が絵画の主役になった。この認識は、フォービズム、キュビスム、抽象表現主義に引き継がれた。

第二に、印象派は「屋外写生」を絵画制作の基本にした。スタジオではなく、自然の中に出て、直接光を捉える。この方法は、後の plein air(プレナール)絵画の伝統になった。

第三に、印象派は「批評の公共空間」を創出した。印象派たちは自ら文章を書き、展覧会のカタログに批評を掲載し、新聞に記事を書いた。マネ、ドガ、モネは、視覚と批評の両方を実践した。これは「芸術家=知識人」という近代の概念の原型だ。

第四に、印象派は「連作」という形式を確立した。同じモチーフを時間の変化に応じて描く。モネの『睡蓮』、『乾草穂』、『大聖堂』。連作は、一枚の絵が持たない「時間の経過」を、複数の画面で示す。これは映画の連続性に似ている。事実、初期の映画研究者は、モネの連作を「静止した映画」と呼んだ。

光の先 — セザンヌとゴーギャン

印象派の内部には、すでに次の時代を予兆する動きがあった。ポール・セザンヌ(1839-1906)は印象派に参加しながら、独自の道を歩んだ。セザンヌはモネの光の記録に満足しなかった。彼は「自然を円柱、球、円錐に還元せよ」と主張した。これは印象派の「視覚の忠実な記録」から「構造の分析」への転換だった。セザンヌの『サント・ヴィクトワール山』の連作は、光ではなく岩石の幾何学的構造を追求した。

ポール・ゴーギャン(1848-1903)は、印象派の「目で見た通り」に反旗を翻した。彼はブルターニュとタヒチに渡り、記憶と想像から描いた。ゴーギャンの色彩は自然の色彩ではない。感情の色彩だ。赤い空、青い肌、黄色い地面。ゴーギャンは「芸術は抽象だ。自然を観察してから、創造せよ」と書いた。この宣言は、20世紀の抽象美術への道を開いた。

1874年の余波 — ギャラリーからミュージアムへ

印象派の絵画は最初、誰も買わなかった。1870年代、モネの絵は数点 sold されるか売れないかだった。ルノワールは貧困に苦しんだ。シスレーは終世、経済的に困窮した。パリの画商ポール・デュラン=リュエルが1870年代後半から印象派の絵を買い始め、1880年代にニューヨークで展示会を開いた。アメリカの富豪、ハヴィメイヤー家、ポッター・パーマー家、ヘンリー・O・ハヴィメイヤーがコレクションを始めた。印象派は「 American Market 」で最初に成功した。

1890年代から1900年代にかけて、印象派はヨーロッパの美術界で認められた。1900年、パリ万国博覧会で印象派作品が展示された。1904年、パリ市がモネの睡蓮連作を購入する計画が立てられた。1908年、ロンドンのギャラリーで大規模な印象派展が開催された。

今日、印象派の絵画は最も高値がつく美術品の一つだ。2019年、モネの『arthouses』は4790万ドルで落札された。1874年に嘲笑された一枚が、145年後には数百万ドルの価値を持つ。これは芸術の受容の時間差——批評が作品に追いつくまでの数十年——を象徴している。

印象派は、芸術が「何を描くか」ではなく「どう描くか」を問題にする時代の幕開けだった。光が主役になり、筆致が意味を持ち、色彩が独立した。一枚の絵は、世界の再現ではなく、画家の目の前で進行中の視覚経験の記録になった。1874年、カプチーヌ大通りのダグラン画廊で始まったこの革命は、今日に至るまで、絵画の基本的前提を変え続けている。