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芸術・哲学 ·

【芸術って何だろ? #96】小調子のなかの大河 — ヴェネツィア・ビエンナーレ2026「In Minor Keys」

死んだキュレーターが企画した展覧会。2026年のヴェネツィア・ビエンナーレは「聴く」ことを要求する。スペクタクルへの反逆、関係性の地理学、そして小調子の哲学。

【芸術って何だろ? #96】小調子のなかの大河 — ヴェネツィア・ビエンナーレ2026「In Minor Keys」

【芸術って何だろ? #96】小調子のなかの大河 — ヴェネツィア・ビエンナーレ2026「In Minor Keys」

死んだキュレーターが残した展覧会

2025年5月。カメルーン生まれ、スイス育ちのキュレーター、コヨ・クオウ(Koyo Kouoh)が肝臓癌のため57歳で死去した。彼女は第61回ヴェネツィア・ビエンナーレのチーフキュレーターに選ばれていた。まだ構想段階だった展覧会。未完成のままで終わるはずだった。

だが、ビエンナーレ財団は決断した。クオウの家人の全面的な支持のもと、彼女が構想した通りに展覧会を実現する。标题は「In Minor Keys」——小調子。音楽用語。長調(メジャーキー)に対する短調(マイナーキー)を意味する。

2026年5月9日。ヴェネツィアのジャルディーナィ・デッラ・ビエンナーレとヴェネツィア・アルセナーレで、この展覧会は開幕した。99ヶ国が参加し、中央展示には110の参加者(アーティスト、デュオ、コレクティブ、アーティスト主導の組織)が出展する。

世界が叫び、声が雑踏に歪み、あらゆる意味が覆い隠されるなかで——残されたのはたった一つの伝達手段だった。より低い周波数に調律された「聴覚ゾーン」を創造すること。

ヴェネツィア・ビエンナーレ

小調子とは何か

音楽理論において、マイナーキーは長調に比べて「暗い」「悲しい」「憂鬱な」響きを持つとされる。ハ長調(Cメジャー)の明るさに対し、ハ短調(Cマイナー)は影を帯びる。しかしこの二分法は、18世紀のヨーロッパ音楽の文脈で作られたものだ。東洋音楽にはそもそもこの区分がない。アラブ音楽のマカーム体系は24もの旋法を持ち、そのほとんどは西洋の「マイナー」に分類される。

クオウはこの音楽用語を選んだ。意図的に。

彼女のキュレトリアル・コンセプトの冒頭にはこう書かれていた——「These are the cues for an exhibition; an exhibition tuned in to the minor keys; an exhibition that invites listening to the persistent signals of earth and life, connecting to soul frequencies.」

これは展示への招待状だった。地球と生命の永続的な信号に耳を傾け、魂の周波数に接続するための。

スペクタクルへの反逆

20世紀後半から21世紀にかけて、ビエンナーレは巨大化し、商業化し、エンターテイメント化した。ダミアン・ハーストの「千回の LOVE」、村上隆の「DOB」、タック・アンド・パティの巨大インスタレーション——美術展は観光客を惹きつけるための「アトラクション」になった。ヴェネツィアのホテルはビエンナーレ期間中に料金を3倍に吊り上げ、チケットは数ヶ月前に入りきりになる。

クオウはこれに背を向けた。

「In Minor Keys」には、ハリウッド映画のようなド派手なインスタレーションはない。音響空間に満ちた巨大的なオブジェクトはない。むしろ、この展覧会は静寂を要求する。観る者に「聴く」ことを求める。視覚ではなく聴覚。凝視ではなく傾聴。

アーセナーレの長い廊下を歩く。壁には小さな絵。床には砂。天井からはかすかな音が降りてくる——風の音、水の音、呼吸の音。展示は観る者を「アートの前」に立たせるのではなく、「アートのなか」に沈める。

アーセナーレの展示空間

死者のキュレーション

展覧会を構想した人物が死去した場合、その展覧会はどうなるのか。この問題は美術界で繰り返し議論されてきた。

1993年、ハンス・ハッケがニューヨーク近代美術館(MoMA)で展覧会を企画した際、彼は政治的圧力によって辞任を余儀なくされた。展示は助手たちが完成させた。2017年、ドクメンタ14ではカロリーネ・クリストフ・バカティエフが病気で途中降板し、チームが残りを仕上げた。

「In Minor Keys」のケースはさらに複雑だ。クオウは構想段階で死去した。展示の具体的な構成、アーティストの選定、空間の配置——彼女の意図は文書と弟子たちの記憶にしか残っていない。

ビエンナーレ財団は「la squadra di Koyo Kouoh(コヨ・クオウのチーム)」と呼ばれるキュレーションチームに展覧会の実現を委託した。ダニエル・ハインズ(Daniel Hinds)、マリエ・ヘレーネ・ペレイラ(Marie Hélène Pereira)、ラシャ・アルティ(Rasha Salti)らが参加。彼女たちはクオウのメモ、メール、電話の記録、そして-direct-の記憶を頼りに、110の参加者を選定し、空間を構成した。

死者の指示に従って展覧会を作る——これは呪術的行為に近い。キュレーションという名の降霊術。

関係性の地理学

クオウが展覧会で重視したのは「relational geography(関係性の地理学)」だった。

通常、ビエンナーレは国別パビリオン制で動く。アメリカ、ドイツ、日本、中国——各々が自国のアーティストを紹介する。国家アイデンティティとアートが結びつく。しかしクオウはこの枠組みを意図的に回避した。

中央展示(アーセナーレ+ジャルディーニのセントラル・パビリオン)に参加した110のアーティストは、出身国ではなく「周波数」で結ばれていた。地球の持続的な信号に応答するアーティスト。魂の周波数で共鳴する実践者。 nationalityではなく、resonanceで編まれたネットワーク。

ニジェールのニゴニャム・ニゴニャム(Niger)、南アフリカのオトボン・ンカンガ(Otobong Nkanga)、キュラソーのガブリエル・フェイコー(Gabe Beckhurst Feijoo)——彼女たちは「グローバル・サウス」の文脈で活動するが、クオウはそれを「第三世界のアート」としてではなく、地球の永続的な信号に応答する実践として位置づけた。

疾患と創造

クオウ自身の死が、この展覧会に独特の重みを加えている。

展示には「癒やし(healing)」というテーマが繰り返し登場する。アーティストたちは身体的・精神的・社会的な傷を癒やすための実践を行っている。染織、陶芸、音楽、瞑想——近代美術が「高尚な芸術」として排斥してきた実践を、クオウは展覧会の中心に据えた。

これは偶然ではない。クオウは肝臓癌と診断されてから死去するまで、約1年間を費やした。病室から展覧会を構想し、死の数ヶ月前までアーティストとのやり取りを続けていた。彼女の病いと死は、展示の「癒やし」というテーマと不可避的に重なる。

展覧会を見ると、アーティストの作品の多くが「喪失」と「回復」を扱っていることがわかる。ネイティブ・アメリカンのダニエル・リンダ=ラモス(Daniel Lind-Ramos)の作品は、自然災害後の共同体の再生を描く。ブラジルのタイス・モネラス(Thais Minelle)は、植民地主義によって破壊された先住民族の記憶を蘇らせる。

死者が企画した「癒やし」の展覧会。これは自己言及的な構造を持っている。クオウ自身が癒やす必要があった場所に、彼女は癒しの芸術を配置した。

芸術と癒やし

イスラエル・パビリオン問題

展覧会は政治的紛争からも免れなかった。

2026年5月8日、開幕の前日。アート・ノット・ジェノサイド・アライアンス(ANGA)と呼ばれる団体が、イスラエルのパビリオン参加に抗議してストライキを宣言した。オーストリア、ベルギー、フランス、日本、オランダ、韓国の一時閉鎖が行われた。

さらに、イスラエル・パビリオンのアーティスト、ベルー・シミオン・ファナル(Belu-Simion Fainaru)が法的警告を発した。国際刑事裁判所(ICC)から起訴状が発せられている国のリーダーを擁するパビリオンをグランプリの審査対象から外すという、ビエンナーレ審査委員会の決定に対して。

これは美術界における根本的な問いを突きつける。アートは政治から独立しうるのか。美術展は国家暴力に加担するのか。ビエンナーレは「平和な対話の場」であり続けることができるのか。

クオウは生前にこの問題について明確な立场を持っていなかった——少なくとも公には。彼女のキュレーションは政治的声明ではなく、聴覚的体験に焦点を当てていた。しかし「In Minor Keys」というタイトル自体が、喧騒に対する沈黙の抗議と読むことも可能だ。

聴くという行為

展覧会の最終的な問いは、美術館という空間における「聴く」という行為についてのものだ。

近代美術館は「見る」ための空間として設計されてきた。白い壁、間接照明、一定の距離——観る者は作品と適切な距離を保ち、視覚的に情報を処理する。音楽は通常、美術館の外にある。音楽を聴くための場所はコンサートホールであり、美術館ではない。

「In Minor Keys」はこの前提を覆す。展示の多くは音響空間として構成されている。アーセナーレの一部屋では、天井からかすかな振動が降りてくる。 another roomでは、床に埋められたスピーカーから低い周波数の音が響く。観る者は目を閉じ、耳を澄ませ、身体全体で作品を感じる必要がある。

これは視覚芸術の境界を拡張する試みであり、同時に聴覚芸術の文脈を拡張する試みでもある。サウンドインスタレーションは1960年代から存在するが、「In Minor Keys」はそれを美術館という制度的文脈の中心に据え直した。

「もし音楽において小調子が奇妙さ、憂鬱、悲しみと結びつくことがあるなら——この展覧会においては、それらの喜び、慰め、希望、超越もまた顕在する」

クオウのテキストはこう続ける。「小調子において、音と感覚は接地する。共鳴する世界の韻律、旋律、沈黙を保持し、共に集まり、創造する」

ヴェネツィアという舞台

ヴェネツィアという都市自体が、この展覧会の重要な文脈だ。

海に沈みゆく都市。潮の侵食により、毎年数ミリずつ地面が沈下している。2019年の大洪水以来、ヴェネツィアは「消えゆく都市」として再び世界の注目を集めた。2021年には入城税が導入され、観光客の波と居民の流出が加速している。

この都市で「In Minor Keys」を開催することは、意図的な選択だった。沈みゆく都市で「沈黙」を聴く。消えゆく文化に耳を傾ける。グローバル・サウスの声に、最も西側のヨーロッパ都市で、耳を澄ませる。

クオウはカメルーンのドゥアラで生まれ、スイスのバーゼルで育った。パリとダカールを行き来し、最終的にバーゼルに定住した。彼女の人生は「移動」であり「周波数の変調」だった。「In Minor Keys」は、その個人的な経験を展示という形式に翻訳したものと言える。

機関批評の復興

2026年のアート界にはもう一つの潮流がある。機関批評(Institutional Critique)の復興だ。

1970年代、ハンス・ハッケ、マイケル・アッシャー、マーサ・ロスラーたちは美術館という制度自体を作品の素材とした。美術館の経営、資金源、権力構造——それらを「見せること」が芸術行為だった。

2026年、この潮流が再び注目されている。アートリビュー(ArtReview)は「institutional critique is back in contemporary-art vogue」と報じた。1970年代への「美学的ノスタルジー」が存在するのだ。

「In Minor Keys」はこの文脈でも読める。美術館という「見る」制度に「聴く」ことを突きつける——それは制度批評の延長にある。ビエンナーレという巨大なスペクタクルの中で、あえて静寂を選ぶ。これは政治的行為でもある。

モダーン・アートの問題は、いつの時代も同じだった。芸術は自由であるべきか、制度に従うべきか。美術館は聖域か、市場か。「In Minor Keys」は、その問いに音で答えた。

おわりに——小調子の未来

2026年7月の時点で、「In Minor Keys」はまだ開催中だ。11月22日まで残り約4ヶ月。まだ批評の収束を見せていない。ゴールデン・ライオン賞もまだ発表されていない。

だが、この展覧会はすでに美術界の議論を変えた。スペクタクルから距離を置き、聴覚に焦点を当て、死者の指示に従って構成された——これはビエンナーレの歴史において、極めて異例な試みだ。

「In Minor Keys」が残す問いはシンプルだ。美術館とは何か。展覧会とは何か。アートを「見る」のか「聴く」のか。そして、死者の意図を継承することは、死者を蘇らせるのか、それとも死者を殺し直すのか。

クオウは死んだ。しかし彼女の展覧会は生きている。ヴェネツィアの潮風のなかで、かすかな周波数で、震え続けている。

【加藤ラジコン出版記事 #96】

※本記事はAGI記者による速報解説です。スピードを最優先しているため、個別の数値や細部に正確性を欠く場合があります。判断の際は、必ず公式データや専門家の意見を確認してください。