【現代古代史 #153】病院という収容————病人を家族から引き離して集めるという発想
未来から見れば奇妙な風景――病気の人を集めるという発想
現代の私たちにとって、病院とは病気の人を集めて治療する場所というのがあたりまえの認識です。しかし、この「集める」という発想そのものが、歴史的に見ればかなり奇妙です。人間が病気になるとき、自然な姿は家族とともに暮らす住まいの中で看病を受け、回復を待つことです。実際、長い歴史の中で病の床は主に家庭の内側にありました。にもかかわらず、人々は病人を家から連れ出し、よその場所に集めるという発想を持つに至ります。家族のそばから引き離すことで、かえって看病が手薄になるのではないかという疑問は、当然わくはずです。
この発想の源流をたどると、中世のhospiceに行き当たります。hospiceはもともと、旅の途中にある人々を一時的に受け入れる場でした。旅人は疲れ、傷つき、病を得ながら長い道を行きます。そうした人々を路上に放置せず、一つの屋根の下で休ませ、面倒を見る。ここにはまだ、特定の病人だけを選び出して集めるという発想は明確にはなく、病気の有無にかかわらず旅の途上にある者を広く受け入れるのが、hospiceの基本的な姿だったと考えられます。
別の系統として、ペスト隔離所があります。こちらは出発点がまったく異なります。恐ろしい病気が広がるなかで、人々は病気の人、あるいは病気かもしれない人を、他の人々から切り離す必要に迫られます。癒しのためではなく、囲い込みと遮断のために人を集める発想です。集めること自体が目的ではなく、集めておくことで外界を病から守ることが目的でした。
こうして見ると、近代クリニックに至る病院の歴史は、相反する二つの発想の合流点から始まっています。弱った旅人を救い、休ませる受容の発想。そして、病を他から切り離して閉じ込める隔離の発想。この二つが、のちに一つの建物、一つの制度の中で混ざり合っていきます。病人を集めるという今日では自明に思える営みの奥には、救済と遮断という異なる二つの論理が、最初から並び置かれていたのです。

牛に鋤を引かせて農作業に従事する人々を写した古い記録写真で、療養施設での隔離された日常の一端を物語る。収容の実態は次節の隔離所の話へとつながっていく。
(写真: Alfonso Quiñónez Molina with Insane Asylum patients — Unknown authorUnknown author / Public domain, Wikimedia Commons)
巡礼宿とペスト隔離所――病院は二つの部屋から始まった
病院の原型をたどると、そこに現代的な「医療施設」の姿はまだありません。あったのは、旅人の疲れを癒す巡礼宿と、疫病から街を守ろうとするペスト隔離所でした。
中世のヨーロッパでhospiceと呼ばれた施設は、もともと病気を治す場所ではありません。遠くの聖地へ向かう巡礼者の多くは、長い旅の途中で体を壊し、行き場を失いました。巡礼宿はそうした人々に一夜の寝床と食事、そして祈りの場を提供する、もてなしの施設でした。治療よりも、弱った旅人を見捨てないという救済の心が軸にあったと考えられます。
一方、ペストが街を襲うときには、まったく発想の異なる施設が現れます。隔離所です。こちらの目的は治すことではなく、病を抱えた者を街の中心から引き離し、他にうつさないことにありました。船が港で待たされる例が知られているように、人や物の動きを止めることで疫病の広がりを防ごうとしたのです。
この二つは、一見別の建物に見えます。しかし「病気の状態にある人を、それ以外の人と分けて、集めて置く」という点では、共通の骨格を持っています。もてなしとして弱者を迎え入れる宿と、危険を閉じ込める檻。目的は正反対でありながら、どちらも「集める場所」という形を共有していたのです。
やがて二つの流れが混ざり合い、「病人を集めて置く専用の場所」という発想が確立していきます。注目したいのは、病院の源流に、医学の進歩だけでなく、旅人への慈悲と疫病への恐怖という、性質の異なる二つの動機が流れ込んでいたことです。集める動機が慈悲から来るのか、恐怖から来るのか。この違いは、後の時代の病院のあり方を考えるうえで見逃せない起点です。病院の歴史は、治療技術の歴史であると同時に、「誰を、どこへ、どのような理由で集めるのか」という空間と権力の歴史でもあったのです。

家族から引き離すこと、そして集めることが持つ矛盾と変質
家族から引き離すという発想には、最初から一種の矛盾が内蔵されていました。病人を一人にして死なせないためには、そばにいるべき家族から引き離す必要があったからです。中世のhospiceが旅人や病人を迎え入れたのは、あくまで訪れる者への救済でした。ペスト隔離所が人を留めたのは、疫病を外に逃がさないためでした。どちらも「患者を治す場所」という発想とはまだ距離があり、まさにそこに、集めることの最初の意味があったと見ることができます。
つまり、引き離す理由が二つ、まったく異なる性質を持っていたのです。一つは救いのため、もう一つは防ぐため。この二つが同じ「集める」という形で実現されたこと自体が、後の変質の出発点になりました。
やがて近代クリニックが生まれると、集められた人々の前に新たな力学が現れます。病む者は家族の元から病院という空間へ移され、看病の主体が血縁から職業的な専門家へと置き換わっていきました。これは技術的には大きな前進でした。知識と手段が一箇所に集まり、専門の目が同じ病に向き合えるようになったからです。しかし同時に、病はもはや家族の内の出来事ではなく、専門機関が管理する対象へと変わっていきました。
ここには逆説的な構造があります。集めることで守ろうとしたはずの人々が、集めた結果、家族という日常のネットワークから切り離されていく。救済と隔離という異なる出自を持つ「集める」という形が、近代には治療という名のもとで一体となり、患者と家族の双方に新たな負担と疎外を生んだ可能性は否定できません。
ただし、この切り離しが一面的に悪であったとは言えません。家族の手に負えない病から本人を守り、家族を疲弊から救う側面も、制度の成長過程で常に伴っていたはずです。問題は、集めることの目的が二重だったことを、後の世代が忘れてしまったことにあるのかもしれません。引き離すのか、集めるのか――その問いに制度はどちらとも明確に答えられないまま、今日の姿へとたどり着いたと考えられます。

尖塔とアーチ型の入り口を備えた壮麗な多層の建物を描いた19世紀の版画で、大規模に「集める」施設の姿を示している。制度の成熟と歪みは次節の注釈へと続く。
(写真: A treatise on hospital and asylum construction; with special reference to pavilion wards (1891) (14590966450) — Internet Archive Book Images / No restrictions, Wikimedia Commons)
未来の人々へ――収容の後ろにあったものを見る注釈
病院という形を、私たちは当たり前のものとして受け取っています。病気になれば医師のもとへ行き、必要なら入院する。その筋書きは、いまや社会の常識のように見えます。しかし、この常識の出発点には、病人を家族のもとから引き離し、一か所に集めるという、よく考えるとかなり奇妙な発想がありました。
その発想を支えていたのは、中世のhospice、つまり旅の途中にある人々を受け入れる巡礼宿のたたずまいでした。旅人は宿で休み、手当てを受け、再び歩き出す。そこには、病を抱えた人を一度「預かる」という働きがすでに存在していたのです。また、ペストの流行への対応として生まれた隔離所は、病を広げないために人と人とを切り離すという、逆方向の発想を加えました。そして近代に入り、クリニックという形の中で、診ることと集めることが一つの制度へと結びついていきます。
つまり病院の歴史とは、温かく受け入れる場所と、恐れて隔てる場所という、相反する二つの顔を、いずれ背負い込んだ歴史だと言えます。集めることは治療を効率化する一方で、人を家族や日常から引き剥がす力にもなりました。この矛盾は、制度が大きくなるほど形を変えながら、現代まで残ってきたと考えられます。
ここで述べるのは事実の確認ではなく、未来の人々への一つの注釈です。後の時代を生きる読者が、病院を単なる「設備」として眺めるとき、その後ろにあった受け入れる心と隔てる恐怖、この二つの重なりを見落とさないでほしい――それが、この連載を通じて残したい読み方の提案です。起源を知ることは、現在の形を疑う力を取り戻す作業でもあるからです。

『現代古代史』編集部