【芸術って何だろ? #684】ハーバードの『Critical Printing』— 版画を「思考の実験室」に変え、ニュアンスの判断を鑑賞者に委ねる
ハーバードの『Critical Printing』が目指すもの
ハーバード大学の「Critical Printing」という授業は、版画を単なる技法の修得の場としてではなく、「思考の実験室」へと変えることを目指しています。この授業の中心にあるのは、版画というメディアを通じて、ものの見方や解釈を自分の頭で吟味し、試すという姿勢です。
一般に美術の授業というと、正しい技法を身につけ、完成された作品を作ることをゴールと考えがちです。しかし「Critical Printing」では、版を押した結果が必ずしも思いどおりにならないこと自体が、むしろ重要な材料になります。刷り上がりのゆらぎや予期しない表情は、制作者にとって「なぜこうなったのか」と問いを立てるきっかけとなり、その問いを重ねる過程こそが学びの核だと考えられています。
さらに特徴的なのは、作品の意味を教師が一方的に決めつけないことです。刷り上がったものが何を示すのか、そのニュアンスをどう受け取るのかという判断は、あえて鑑賞者へと委ねられます。つまり作品は、制作者の中で答えが固定された時点で完成するのではなく、見る人の解釈の中でまだ動き続けるものとして扱われます。
こうした姿勢は、版画という手間のかかるメディアと相性が良いとも考えられます。版を彫り、刷り、また彫り直す繰り返しのなかで、制作者自身も自分の考えを何度も書き換えることになるからです。この節での説明はあくまで授業のねらいの紹介ですが、「確定させていないものを持ち続けること」に価値を置くこの考え方は、後の節で扱う授業の実際や鑑賞者への委ね方を理解するうえでの土台になります。

版画を「思考の実験室」に変える授業の実際
ハーバードの『Critical Printing』という授業の大きな特徴は、版画という行為を「正解を刷り出す作業」ではなく、「考えを試す実験室」として扱っている点だと資料からは読み取れます。版画は本来、版という「決定」を経て紙に定着する技術です。版を刻んだ瞬間、作者の意図はある程度固定されます。しかしこの授業では、その固定されたものが何を意味するのかを、完成品の側で確定させない、という逆説的な姿勢が見えてきます。
もし授業の実際を想像してみると、学生はまず版を彫り、刷り、刷り上がったものを自分でも眺める段階を経ることになります。ここで重要なのは、出来上がった作品を見て「これはこういう意味だ」と自分で結論を下さないことです。むしろ、刷られた結果がもつ曖昧さや複数の解釈の余地を、そのまま作品の性質として引き受ける。作者自身が判断を保留し、解釈の猶予を残したまま次の版に進む、という流れが実験室と呼ばれる所以ではないかと考えられます。
もちろん、これは資料から伺える授業の在り方についての私の読み解きであり、授業の細部を確認したわけではありません。とはいえ、版画のような「複製と定着を伴う技法」を、むしろ判断を手放す練習の場にできるという発想自体は、美術教育の一般的な枠組みに対する一つの提案として十分に刺激的だと思います。作る側が意味を確定させずに版を重ねていくとしたら、授業で刷られるのは一枚の絵ではなく、「まだ決まっていない問い」そのものだと言えるかもしれません。

Homi K. Bhabha 2 (cropped)
(写真: Homi K. Bhabha 2 (cropped) — jeanbaptisteparis / CC BY-SA 2.0, Wikimedia Commons)
完成形をあえて曖昧にする—判断を鑑賞者へ
版画という媒介には、もともと「刷り」をめぐる選択がつきものです。版にどれだけ力を込めるか、インクをどの程度残すか、同じ版から何枚刷るか。その一枚一枚は、完成の線引きをどこに置くかを問う行為だと言えます。ここで述べるのは資料に基づく一般論としての整理ですが、版画を「思考の実験室」として扱う授業では、この完成の線引きそのものを実験の対象にできる可能性があります。つまり、作者が最良の一枚を断定して見せ場を作るのではなく、判断の材料をそろえた状態で作品を提示し、どの刷りがよいかを鑑賞者に考えてもらうのです。
この方向には、提案として二つの意味があると考えます。一つは、作者の意図を唯一の正解として受け取る姿勢をゆるめることです。版画は同じ版から複数の状態が生まれるため、どれを「本物」と呼ぶかは自明ではありません。曖昧さを残すことは、手抜きではなく、判断を引き受ける鑑賞者の存在を前提にした提示のしかただと言えます。もう一つは、ニュアンスの違いに気づく目を育てることです。濃淡のかすかな差や刷りむらの表情は、決めつけずに見つめるうちに初めて立ち上がってきます。
もちろん、判断を委ねるといっても何をしてもよいわけではありません。事実として版画には版と刷りの条件という確かな手がかりがあり、鑑賞者の判断もその上で成り立ちます。作者が答えを手放すのではなく、答えを問う場所を作品の外へ広げる。曖昧さとは、そうした広がりの呼び名なのではないでしょうか。版画が鑑賞者との対話の場になるということなのでしょう。

私たちの身近な「まだ決まっていない作品」との出会い方
美術館やギャラリーに出かけなくても、私たちは実は「まだ決まっていない作品」に触れる機会を日常の中で持っています。たとえば、書きかけのメモ、途中でやめてしまった落書き、印刷途中の刷りムラのある紙片。こうしたものは作者の意図が完全には定まっていない状態にあり、見る側が「これは何を伝えようとしているのだろう」と、自分の頭で問いを立てることになります。
本連載で扱ってきたような授業の姿勢を持ち出すまでもなく、判断が完成していないものを見るという経験自体は、生活の中にすでに存在しています。違いがあるとすれば、それを「未完成だから偽物だ」と片付けてしまうか、「判断の材料として丁寧に向き合う」ものと捉えるか、という受け止め方の側にあるように思います。前者であれば見過ごして終わりますが、後者であれば、身の回りの些細な断片が鑑賞のきっかけになり得ます。
提案としていえば、日常の中で「意図が読み切れないもの」に出会ったとき、あわてて答えを出さずに、複数の解釈を並べてみる時間を少しだけ取ってみてはどうでしょうか。ニュアンスの判断を鑑賞者へ委ねるという考え方は、特別な訓練を必要とするものではなく、日常の見方をゆるやかに変える小さな実践としても機能し得るように思われます。もちろん、それがどのような体験になるかは人それぞれであり、ここで示したのはあくまで一つの捉え方にすぎません。

『芸術って何だろ?』編集部