【現代古代史 #156】標準時という束縛————鉄道が播いた標準時という新しい束縛
町ごとにずれていた時刻という奇習
時刻とは、もともと土地に結びついたものでした。太陽が南中する瞬間を正午と数える以上、東にずれるほど時刻は進み、西にずれるほど遅くなります。したがって、人々が徒歩や馬で移動し、町と町の行き来が緩やかだった時代には、それぞれの土地がそれぞれの太陽の時間に従っていれば、それで成り立っていたのです。
当時の感覚に立ってみれば、隣の町と時刻がずれているのはむしろ自然なことでした。旅人が街に入れば、教会の鐘や塔の時計がその土地の時間を告げ、人々はそれに合わせて暮らします。時計を合わせるという行為そのものが、まだ生活の中心には位置していなかったのです。時間は国家が配るものではなく、土地ごとに生まれ、土地ごとに消えていく、きわめて地域的な存在だったと言えるでしょう。
この「町ごとの時刻」という慣行は、鉄道の登場によって破綻への道を歩み始めます。馬車の時代なら気づかないほどのずれも、速度を増した鉄道の前では無視できないものになりました。出発地と到着地で時計が違えば、時刻表は成立せず、人々は単純に混乱するからです。鉄道の時刻表を一本につなぐには、どこでも同じ時刻を使うという前提がどうしても必要でした。いわば、鉄道が時間を作ったと言えます。
とはいえ、ここで注意しておきたいのは、ずれが問題になるには、それを問題とみなす何者か、すなわち共通の目盛りを必要とする社会の登場が必要だったはずだ、という点です。人々が同じ瞬間を同じ数字で共有しようとし始めたとき、太陽と土地に委ねられていた時間は、初めて「ずれている」と判断される対象に変わりました。やがて1884年の国際子午線会議が世界の時間の基準をめぐる話し合いの場となり、土地ごとにばらけていた時刻は、共通の目盛りへと統合されていきます。
「町ごとの時刻」を奇習と呼びうるなら、それは土地の時間に寄り添って生きる長い歴史そのものでした。それを異様なものと感じる視線のほうが、むしろ後からやってきたのです。

Western Union Standard Time Master Clocks - 4 Time zones - corrected at noon each day - from Naval Observatory signal via Western Union telegraph lines
(写真: Western Union Standard Time Master Clocks - 4 Time zones - corrected at noon each day - from Naval Observatory signal via Western Union telegraph lines — Self-Winding Clock Company Borough of Brooklyn, New York C / Public domain, Wikimedia Commons)
鉄道時刻表が統一を迫ったとき
町ごとにずれていた時刻が、ただ一つの時刻へと収束していく。その転換点となったのは、近代の交通機関、とりわけ鉄道の登場でした。
鉄道が走り始める前の時代、時刻は各々の町がそれぞれの太陽を基準に決めていました。太陽が南中する瞬間を正午とするこの仕組みは、土地が離れるほど時刻のずれを生みます。人が徒歩や馬で移動するかぎり、そのずれは旅の途中で少しずつ時計を直せば済む問題であり、さほど不便ではありませんでした。
ところが鉄道は、列車という巨大な物体を、ずれた時刻の土地から土地へと短時間で運ぶようになりました。発着時刻を示す時刻表は、どの町の時刻を基準に書かれるのかという問題に直ちに突き当たります。もし始発の駅と終着の駅で時刻の流れそのものが違えば、時刻表は一見もしくは誤解の温床となり、乗り換えや運行の管理は困難を極めます。列車の安全を確保するためには、線路の隅々まで同じ時刻が行き渡っていることが、そもそもの前提となるからです。
そこで鉄道会社は、路線全体で一つの時刻を採用するようになりました。これが、ある広い範囲の内部で時刻を統一する「標準時」のはじまりであると説明されます。時刻表という一枚の紙が、それまで土地ごとに分かち合われていた時刻の多様性を呑み込み、ひとつの基準へと置き換えていったのです。
つまり標準時の起源をたどると、そこには国家の布告よりも先に、時刻表という実用の道具があったことになります。列車を時間どおりに走らせるというきわめて身近な必要から、時間の均質化が始まったのです。もっとも、この動きが一国の内にとどまらず、世界的な時刻の秩序へと広がっていく過程については、別の節に譲ることにします。

Time zone clock, Coventry - geograph.org.uk - 1046509
(写真: Time zone clock, Coventry - geograph.org.uk - 1046509 — Mike Faherty / CC BY-SA 2.0, Wikimedia Commons)
1884年国際子午線会議と時間の国家化
町ごとにばらばらだった時刻をひとつに束ねる動きは、鉄道の時刻表を境に、国や世界の営みへと変わっていきました。列車が広い範囲を定刻どおりに走るためには、出発地と到着地で時刻が違っていては都合が悪くなります。時刻表という一枚の紙の上で、すべての駅が同じ時間のものさしに乗らなければならなくなったのです。それまで時刻はそれぞれの町の内部事情にとどまっていましたが、鉄道の登場によって、交通と産業を支える社会の基盤へと姿を変えました。
その流れが国境を越えて結実したのが、1884年の国際子午線会議です。この会議で、世界の時間の起点となる経線が話し合われ、各地の時刻をそこから機械的に引き出すという発想が国際的な合意へと進んだと伝えられます。太陽の通り道を見ながらその土地その土地で決めていた時刻が、一つの起点から計算される標準へと置き換えられていったのです。空の眺めに代わって、紙の上の時刻表と会議室の合意が、人類共通の時間を定める時代になったわけです。
ここで起きた変化は、単なる技術の統一では済まなかったと考えられます。時刻を誰が、どの基準で決めるのかは、そのまま国家の統治の問題になり得ます。だからこそ標準時の制定は、時間の国家化と呼ぶにふさわしい出来事でした。それまで自然の昼夜にゆだねられていた時間が、法律と制度の管理下に置かれ、国民はみな同じ針の動きに合わせて暮らすことになるのです。
人々が時刻を意識せずに暮らしていた時代から、時刻表と会議を経て、時間が制度として整備される時代へ。標準時の歴史は、自由だったはずの時間が、便利さと引き換えに束縛されていく過程でもあります。この束縛の意味を問い直す視点は、次節以降を考えるうえで立ち戻る原点として、いま一度ここで確認しておきたいところです。

WORLD MAP AND TIME ZONE CLOCKS AT DON MUENG AIRPORT BANGKOK THAILAND JAN 2013 (8511892193)
(写真: WORLD MAP AND TIME ZONE CLOCKS AT DON MUENG AIRPORT BANGKOK THAILAND JAN 2013 (8511892193) — calflier001 / CC BY-SA 2.0, Wikimedia Commons)
未来人へ──標準時という束縛の注釈
私たちが当たり前としている「いま何時」という問いには、実は長い歴史の末に定められた約束が沈んでいます。かつて時刻は町ごとにずれており、人が移動するたびに時計を合わせ直すのが普通の風景でした。太陽の動きをもとにした地域ごとの時間は、暮らしの範囲が狭いうちにはさほど不便ではありませんでした。それを終わらせたのは、広い範囲を正確に走らねばならない鉄道の時刻表でした。時刻表は一本の線の上で時間をそろえることを要求し、結果として人々の生活の時間を統一へと導いていきます。そして1884年の国際子午線会議は、その動きに世界的な枠組みを与え、時間は国家と国際の取り決めによって管理されるものへと変わっていきました。
こうして見ると、標準時とは自然に存在するものではなく、鉄道という技術と会議という合意が生んだ人工的な束縛だと言えます。この束縛は、ばらばらだった地域の時間を一つに束ね、遠くの場所と同時に生きることを可能にしました。現代の私たちが共同作業や移動を当たり前に行えるのは、この約束が地上を覆ったからです。
しかし束縛である以上、その縛り方は見直され続けるはずです。本稿の見解として述べるなら、標準時の起源をたどることは、時刻表の数字の裏にある合意のあり方を問い直すことにつながります。未来の人たちが異なる時間の区切り方を選んでいるとしても、それはこの束縛が最初から絶対ではなかったことの証明でしょう。町ごとにずれていた時刻が一つに統合されたように、統合された時刻がまた別の形へと編み直される時代が来ても、不思議ではありません。標準時という束縛は、未来人へ向けた一つの長い注釈なのです。

『現代古代史』編集部