透明な鎧のバラッド 第1巻——防衛の城と、素手の戦士
冒険者ギルド「クローバーの足跡」に所属する万年レベル1のパーティーに舞い込んだ風変わりな依頼——それは、誰の言葉も信じられなくなった元・名工カサイの心を開くこと。誠実さだけで、透明な鎧は溶かせるのか。

「おい、ディル! また一人で突っ走るな!」 「うるさいな、ガント! 目の前に困っている人がいるんだ、迷ってる暇なんてないだろ!」
ここは剣と魔法の国。――ではなく、どこかトボけた、だけど地続きの地平線が広がるファンタジー世界。冒険者ギルド「クローバーの足跡」に所属する万年レベル1の頼りないパーティーが、今日もある風変わりな依頼のせいで頭を抱えていた。
物語の語り手であり、荷物持ち兼マッパーの少女ミルカは、すっかり擦り切れた羊皮紙のノートにペンを走らせながら、深いため息をつく。
「もう……。うちのリーダーが猪突猛進なのは今に始まったことじゃないけど、今回の依頼は魔物退治でもダンジョン探索でもないのよ? 『頑なな心を開く』なんて、ギルドのクエストボードに貼るような内容じゃないわ」
「全くだぜ」 器用にナイフを回しながら、盗賊のガントが吐き捨てる。 「大体、その『心の壁の迷宮』とやらに引きこもっちまったっていう元・名工のじいさん、名前なんて言ったっけ?」
「カサイさんよ」 ミルカは、依頼書を読み上げた。
【クエスト:透明な鎧を溶かせ】 依頼主:ナラ・シティの住人たち 報酬:特製パスタ(大盛り)と、ほんの少しの世界の平和 内容:かつて数々の名作を生み出しながら、ある裏切りをきっかけに、誰の言葉も信じられなくなった盾職人カサイ。彼の心を解きほぐし、もう一度街の若者たちのために道具を作らせてほしい。
「心理学をかじった賢者が言ってたわ」 ミルカは人差し指を立てて説明を試みる。 「人間はね、ものすごく深く傷つくと、心の中に『透明な鎧』を着込んじゃうんだって。専門用語でいうところの防衛機制。自分を守るためのバリアね。カサイさんは、かつて一番信頼していた弟子に裏切られて、自分の技術を盗まれた。その時から、『誠実な人間なんてこの世にいない。みんな嘘つきだ』って思うようになっちゃったの」
「ふん、賢いやり方じゃねえか。傷つきたくなきゃ、最初から誰も信じなきゃいい」 ガントは皮肉げに笑うが、その目はどこか寂しげだ。
「でもね、ガント。その鎧は、自分を守ると同時に、自分を閉じ込める檻にもなっちゃうのよ。中からは誰も出られないし、外からも誰も入れない。仏教でいう我執――『これが自分だ、自分を守らなきゃ』っていう強いこだわりが、カサイさんを孤独の闇に縛り付けているの」
そこへ、大剣を背負った熱血戦士ディルが、カサイの工房の固く閉ざされた門の前に立ち、拳を突き上げた。
「だったら、俺がその鎧ごと、誠実さでぶつかって粉砕してやる!」
「待ちなさい、ディル!」 ミルカが止める間もなく、物語は動き出してしまう。
これは、とあるパーティーの不器用な冒険の記録である。
第1巻:防衛の城と、素手の戦士
閉ざされた門と「透明な鎧」

カサイの工房は、ナラ・シティのはずれ、古い竹林に囲まれた場所にあった。かつてはトントン、カンカンと心地よい鉄槌の音が響いていたというが、今は不気味なほど静まり返っている。
「おい、カサイのじいさん! 頼む、街の警備隊のために新しい盾を作ってくれ! あんたの腕が必要なんだ!」 ディルが門を激しく叩く。
「帰れ」 中から地を這うような、冷たい声が響いた。 「二度と誰も信じぬと言ったはずだ。お前たちのような冒険者も、どうせ調子の良いことを言って、ワシの技術や金を毟り取りに来たのだろう。誠実そうな顔をしおって……反吐が出る。帰れ、さもなくば犬を放つぞ」
ディルはショックを受けたように一歩下がった。 「な、なんだよ。俺は本気で街のために……」
「ほら見ろ、言わんこっちゃない」 ガントが肩をすくめる。 「じいさんにとっては、ディルのお節介も『下心のある罠』にしか見えないんだよ。心理学でいう投影ってやつだな。自分が人を信じられないから、他人も自分を騙そうとしているように見えるんだ」
「ガント、詳しいじゃない」 ミルカが意外そうな顔をすると、ガントはふいと目をそらした。 「……別に。俺だって盗賊だからな。疑い深い奴の心理くらいわかるさ」
「でも、諦めるわけにはいかないわ」 ミルカはノートにカサイの工房の簡単な見取り図を描きながら、ディルに言った。 「ディル、カサイさんはね、ただ怒っているんじゃないの。『もう二度と、あんな痛い思いはしたくない』って、心が泣いているのよ。大人がよくやる『冷笑』や『拒絶』は、中身はただの寂しがり屋の子供が、必死にトゲを逆立てている状態なの。仏教では、これを根本無明――物事の真実が見えなくなって、苦しみのループにハマっている状態って言うわ」
「そうか……」 ディルは、自分の大きな手をじっと見つめた。 「あいつが泣いてるなら、俺はなおさら放っておけない。武器も持たず、嘘もつかず、ただ『俺はあんたを助けたい』って言い続ける。それしかねえだろ」
誠実さのファースト・コンタクト
翌日から、ディルの奇妙な挑戦が始まった。彼は毎朝、カサイの工房の前にやってきて、ただ座るのだ。武器はすべてミルカに預け、防具もつけず、ただの白いシャツ姿で。
「じいさん、おはよう! 今日はいい天気だぞ!」 中からは何の返事もない。時折、窓の隙間から、カサイの鋭い視線がディルを刺すだけだ。
昼になると、ディルはミルカが作ったお弁当(得意の和風仕立てのタケノコご飯)を門の前に置き、「これ、美味いから食ってくれ!」と言って帰っていく。

「ディル、それじゃただのストーカーだぜ」 ガントが呆れるが、ディルは真剣だった。 「いいんだ。こちらがまず『100%安全な存在』だってことを、時間をかけて証明するしかないんだろ? ミルカが言ってた、誠実さの第一定理だ」
ミルカは頷いた。 「そう。心理学では返報性の原理っていって、人は好意を向けられると、好意を返したくなる性質があるの。でも、カサイさんみたいに深く傷ついた人は、その好意すら『罠じゃないか』って疑う。だから、時間がかかるの。こちらの誠実さが本物かどうか、相手がテストしている期間なんだから」
一週間が経ち、二週間が経った。雨の日も、風の日も、ディルはただ門の前に座り続けた。
ある日、ついに激しい嵐がナラ・シティを襲った。木々がなぎ倒され、激しい雨がディルの体から体温を奪っていく。
「ディル、もうやめろ! 死んじまうぞ!」 宿屋の窓からガントが叫ぶが、ディルは動かない。 「じいさんが……中にいるじいさんが、一人でこの嵐の音を聞いてると思うと、帰れないんだ。俺がここにいることで、一人じゃないって伝えたいんだ」
その時、ガガガ……と、重い木の門が、わずかに開いた。

「バカめ……」 カサイが、傘もささずに立っていた。その目は怒りに震えていたが、同時にひどく動揺していた。 「なぜそこまでする? ワシを騙して、何を奪うつもりだ! 言え!」
ディルは、寒さで震える唇で、ニカッと笑った。 「何も奪わないよ、じいさん。俺はただ……あんたの作った盾で、仲間を守りたいだけだ。あんたの腕は、誰かを傷つけるためのものじゃない。守るためのものだろ? それを信じてるだけさ」
カサイは息を呑んだ。ディルの濁りのない、まっすぐな瞳。そこには、駆け引きも、計算も、何一つなかった。 「……入れ。風邪をひかれては、寝覚めが悪い」
ついに、防衛の城の門が、ほんの少しだけ開いた。
その夜、工房の奥で温かいスープを啜りながら、ミルカはそっとノートに書き留めた。 「門は開いた。でも、これで終わりじゃない。むしろ、本当の戦いはここから始まる」
暖炉の火が、カサイの痩せた横顔を照らしている。その目はまだ、何かを警戒するように、じっと闇を見つめていた。

第1巻・完 — 次巻『時間の検証と、揺らぐリトマス試験紙』に続く
『透明な鎧のバラッド』