透明な鎧のバラッド 第4巻——沈黙の氷原
北の大図書館を襲った元・心理学者フロスト。妻リリカを解離性昏迷から救うため、禁術を追う。第一定理では溶かせない氷——学習性無力感に挑む。
透明な鎧のバラッド 新章 第4巻:沈黙の氷原
前章までのあらすじ:カサイの心を開き「誠実さの第一定理」を証明したディルたち。しかし北の大図書館を襲った謎の人物が残した血文字——「第一定理、面白い。――だが、それで溶かせない氷もある」
◆
一
「大変だ……! 北の大図書館が……何者かに襲撃された!」
早馬の騎手が広場に倒れ込んだのは、特製パスタの三皿目を平らげたちょうどその時だった。ディルは口の端についたトマトソースを手の甲で拭い、立ち上がる。
「図書館だって? 本を盗みに?」
「ち、違う……」
騎手は震える手で、ボロボロに引き裂かれた一枚の布を差し出した。

第一定理、面白い。 ――だが、それで溶かせない氷もある。
「おいおい……この筆跡、血だぜ」
ガントが布をひったくり、眉をひそめる。ミルカはすでに羊皮紙のノートを開いていた。彼女の目は、広場の向こうの北の空に向けられている。朝だというのに不吉な黒い雲が立ち込めていた。
「カサイさんの銀の盾の設計図を要求していると」
騎手の言葉に、カサイが顔を上げた。工房から再び響き始めたばかりの鉄槌の音が、ぴたりと止まる。
「設計図だと? あの盾に設計図などない。ワシの生涯をかけた一点物だ。だが……それを知っている者は限られている」
「誰だ、じいさん」
カサイは遠くを見つめた。まるで、ずっと昔に置き忘れてきた何かを思い出すように。
「……フロスト。生きていたのか」
◆
二
北の大図書館は、王国で最も古い石造りの建物だった。苔むした壁には蔦が絡みつき、尖塔のてっぺんにはいつも白い鳥が止まっていたという。しかし今、その鳥はいなかった。
ディルたちが到着した時、図書館の正面扉は内側から粉砕されていた。木片が散らばり、本のページが風に舞っている。

「ひでえな……でも妙だぜ。本は燃やされてない。床も壊されてない。まるで――」
「――本を探していた?」
ミルカがしゃがみ込み、床に散らばったページを拾う。それは禁書庫の目録だった。
「『銀の盾の設計図』なんて、この世に存在しないはずなのに」
「存在しないものを探している」
カサイの声が奥から響いた。彼は壊れた書棚の前で立ち止まっている。
「ワシも昔、そうだった。ないものを探して、ないものに怒って、ないもののせいで全てを壊した」
その時、書庫の奥の暗がりから、かすかな灯りが揺れた。ランプを手にした老人が、ゆっくりと姿を現す。白い髭が胸まで伸び、背中は曲がっているが、その目だけは異様に鋭かった。
「カサイ……来たのか。あの子を……止めに」
「あの子?」
ユーリは壁にもたれかかり、長いため息をついた。
「フロストはな……かつて、お前たちと同じだった。いや、カサイ、お前以上にだ。あの男は、誠実さの第一定理を、本気で信じていた。命を懸けてな」
◆
三

ユーリが語ったのは、十五年前の出来事だった。当時、王国の宮廷には心理学者という役職があり、フロストはその筆頭だった。彼は戦争で傷ついた兵士たちの心を癒やし、その手法を理論化した。
「誠実さの第一定理。あれを最初に提唱したのは、フロストだ。カサイ、お前が職人として体現し、フロストが学者として体系化した。二人は同志だった」
「ってことは、じいさんとそのフロストってのは……」
「親友だった」
カサイが静かに言った。
「ワシが弟子に裏切られ、全てを失って工房に引きこもった時、フロストだけは毎日門の前に来た。ディル、お前と同じようにな」
ディルは何も言わず、じっとカサイの横顔を見ていた。
「ワシは……開けなかった。三年だ。三年間、フロストは通い続けた。だがワシはついに門を開けなかった。ワシの透明な鎧は、それほどまでに硬かった」
「それで――フロストは折れた。親友すら救えなかった。その自責が、彼の中に小さな棘のように残った。そして五年前、今度は彼の妻が……」
ランプの灯りが、かすかに揺らいだ。
「戦争だった。北の国境の小競り合いで、リリカの故郷の村が全滅した。家族も、幼なじみも、飼っていた犬さえも。リリカだけが、偶然その日、隣町の市に出かけていて生き残った」
全員が息を呑んだ。ミルカのペンが止まる。
「解離性昏迷——心が、自分を守るために自分を殺してしまうの。目は開いている。呼吸もしている。でも、誰も認識しない。何も感じない。まるで――」
「――魂の抜けた人形だ。フロストは五年間、あらゆる誠実さを注いだ。だがリリカは一度も反応しなかった。誠実さは、それを受け取る心が残っている者にしか届かない。リリカからは、受け取る心そのものが消えていた」
沈黙が図書館を包んだ。風が壊れた扉から吹き込み、散らばったページがかさかさと鳴る。
ガントが、突然立ち上がった。彼の顔は青ざめていた。
「……わかる。俺にも、わかる」
全員がガントを見た。彼の声は、いつもの皮肉な調子ではなかった。裸の、剥き出しの声だった。
「俺の姉貴も――同じだった。目が開いてて、息もしてて、それなのに何も見てなかった。俺はあの時、何もできなかった。ただ逃げた」
ミルカが小さく息を呑んだ。ガントは今まで、自分の過去を一度も話したことがなかった。
「だからわかるんだよ、そのフロストって男が、なんで図書館を襲ったのか。こいつは悪意じゃねえ。こいつは……まだ諦めてねえんだ」
◆
四

北の氷原は、想像を絶する静けさだった。雪が音を吸い込み、自分たちの足音さえも遠くに聞こえる。
「フロストは、この先の洞窟にいるはずだ。かつての王国の防衛拠点だった場所だ。永久凍土に守られて、リリカを生かしておくためには、そこしかない」
ディルは黙って歩いていた。いつもの彼なら「行くぞ!」と叫んで先頭を切っていただろう。だが今は違った。彼の足取りには迷いがあった。
「ディル。怖いの?」
ディルは足を止め、自分の手を見つめた。
「……俺の誠実さは、じいさんには届いた。でも、目の前にいるのに届かない人がいるんだ。五年だ。五年間、毎日誠実に接しても、何も返ってこない。それがどんな気持ちか――俺にはまだ、わからない。それが怖いんだ」
「それでいいんだよ」
カサイが後ろから言った。口元がかすかに緩んでいる。
「ワシはな、ディル。お前は何も考えないからすごいんだと思っていた。だが違う。お前の本当の強さは、怖いと思っても歩けることだ。迷え。迷って、それでも進め。ワシはそれができなかった」
氷の洞窟の入り口は、巨大な裂け目のような口を開けていた。奥からは、かすかに青い光が漏れている。
「なあ、じいさん。友達を、助けられるか」
「助けるのではない。そこにいるだけだ。ワシがお前に教えられたのは、それだけだ」
ディルはうなずき、洞窟の中へ一歩を踏み出した。
◆

洞窟の奥は、不思議な空間だった。氷の壁が青く発光し、天井から無数の氷柱が下がっている。その中央に、簡素な寝台が置かれていた。白い布に包まれて、若い女性が横たわっている。目は開いている。長い睫毛。美しい顔立ち。しかしその瞳には——何も映っていない。
寝台の横に、痩せた男が立っていた。黒いマント。銀縁の眼鏡。顔には深い皺が刻まれ、髪は四十代とは思えないほど白い。だが目だけは、爛々と輝いていた。憎しみでも、狂気でもない——絶望に抗う者の目だ。
「よく来たな。カサイ。そして——なるほど。君が、かの『透明な鎧』を溶かした男か」
「あんたは……悪い人には見えない」
「そうだろうな。私は悪人ではない。ただの——壊れた心理学者だ。妻に、一度だけでいい。もう一度、笑ってほしい。それだけだ」
「そのために図書館を襲ったのか。禁書庫にあったっていう『共感の強制転移』とやらを探して」
「よく知っているな、盗賊」
「知ってるさ。俺の姉貴も——同じだった。スラムだ。盗みを働いて、見つかって、処刑された。俺はそれを、ただ隠れて見てるしかなかった。姉貴の目が——その女と同じ目になったのを、見てた」
洞窟の中が静まり返った。
「だからあんたの気持ちはわかる。でも、あんたは間違ってる。禁術なんかじゃ、姉貴は戻らなかった。同じだ。この人も——」
「黙れ」
フロストの声が、初めて怒気を帯びた。
「君に何がわかる。五年だ。私は五年間、毎朝『おはよう』と言い、毎晩『おやすみ』と言い続けた。返事はない。一度もだ。君の姉は死んだ。しかしリリカは生きている。目を開けて、息をして、ここにいる。それなのに——それなのに!」
彼の声が洞窟に反響した。氷柱がかすかに震える。
「なぜ届かないんだ。私は心理学者だ。誠実さの第一定理を、誰よりも信じていた。それなのに、なぜ。なぜ一番大切な人にだけ、届かないんだ」
その時、ディルが一歩前に出た。
「——あんた、疲れたんだろ」

ディルはそれだけ言って、洞窟の床に、どっかりと座り込んだ。武器を置く。防具を外す。ただの白いシャツ姿で。それは、何週間も前——カサイの工房の門の前でしたのと、まったく同じ仕草だった。
「……何をしている」
「待ってるんだ。あんたが疲れたって言うのを。じいさんもそうだったんだ。最初は怒鳴って、それから泣いて、それから——」
「ワシは泣いてなどいない!」
ガントが小さく吹き出す。ミルカのペンが走る。
「俺は心理学者じゃない。難しいこともわからない。でも一つだけ知ってることがある」
「なんだ」
「じいさんは、三年かかった。あんたはまだ、五年だ」
洞窟の中に、奇妙な沈黙が落ちた。フロストは何かを言おうとして、口を開き、閉じた。リリカの寝台の横で、彼はゆっくりと膝をついた。
「ばかばかしい。私は心理学者だ。世界最高の。それなのに——」
「心理学者だから、わかんなくなっちまうこともあるんだろ。姉貴が死んだ時、俺は泣けなかった。悲しいのに、涙が出なかった。心理学でいう解離ってやつだって、ずっと後で知った。頭ではわかってても、心がついてこねえんだ」
「君もか」
「ああ。俺もだ。あんたの奥さん、俺の姉貴と同じ目をしてるよ。生きてるのに、生きてない。……辛かっただろ、毎日」
フロストは答えなかった。ただ、眼鏡の奥で何かが光った。
ミルカが静かにペンを走らせる。
(解離は敵じゃない。心が自分を守る最後の手段だ。問題は、その鎧があまりにも硬くて、外からも、そして中からも開けられなくなることだ)
◆
五
どれほどの時間が経ったのか。洞窟の中では時間の感覚が失われる。
フロストはゆっくりと顔を上げた。眼鏡の奥の目は、まだ濡れていたが、その奥にあった狂気じみた光は消えていた。代わりに——疲れ切った、深い諦めの色があった。
「……この洞窟のさらに奥に、王国が封印した禁書庫がある」
フロストは立ち上がり、氷の壁に手を触れた。壁の一部が透けて、奥に続く通路が浮かび上がる。
「そこに『共感の強制転移』の術式が保管されている。他者の心に直接入り込み、感情を外部から注入する——いわば、相手の代理で泣き、代理で笑い、代理で人間性を取り戻させる禁術だ」
「……それって」
ミルカがペンを止めた。
「自分の心を、相手に移植するってこと?」
「そうだ。私の感情を、リリカに流し込む。私の喜び、私の悲しみ、私の記憶——全てを。リスクは理解している。失敗すれば、私の自我もろとも消し飛ぶ。成功しても、私は二度と元の心理学者には戻れないかもしれない」
「あんた、それ……」
ガントが声を詰まらせた。
「自分が犠牲になるつもりか」
「犠牲ではない。当然の報いだ」
フロストはリリカの髪を撫でた。
「私はカサイを救えなかった。親友が三年間、透明な鎧に閉じこもっている間、私は何もできなかった。心理学者のくせに、ただ毎日門の前に立っていただけだ。それなのに——それなのに、リリカにだけは、何としても手を差し伸べたいと思った。矛盾している。最低の友人でありながら、最低の夫ではありたくなかった」
「……ちがう」
カサイが口を開いた。その声は、不思議なほど穏やかだった。
「フロスト。お前は最低の友人なんかじゃなかった。お前はただ——ワシよりも先に折れただけだ。三年と五年、どちらが長いかではない。どちらも、限界だった。それだけのことだ」
フロストは答えなかった。ただ、カサイの顔をじっと見つめている。
「ワシはな、お前に門を開けなかったことを、ずっと詫びていた。だが今ならわかる。お前を救えなかったんじゃない。お前が——自分で自分を許せなかっただけだ」
「……許す?」
「そうだ。親友を救えなかった自分を。妻を救えない自分を。お前は自分を罰し続けている。その罰が、禁術に手を出させた。お前を動かしているのは、リリカへの愛じゃない。自分への罰だ」
フロストの指が、かすかに震えた。
ディルがゆっくりと立ち上がった。
「じいさんの言う通りだと思う。俺も、あんたに同じことをする。門の前に座る。返事がなくても、毎日座る」
「……意味がない。リリカは君の声を聞いていない」
「それでもいい。誰も聞いてなくても、俺はそこにいる。それが——俺のできることだから」
洞窟の中に、かすかな風が吹き抜けた。氷柱が触れ合って、澄んだ音を立てる。
その時だった。
リリカの右手の指が——ぴくりと動いた。
「……!」
ミルカが息を呑んだ。しかし、フロストはそれに気づかなかった。彼はちょうど、うつむいて眼鏡を外し、目を拭っていたのだ。
「フロストさん! 今、奥さんの指が——」
「……何?」
フロストが慌てて眼鏡をかけ直し、リリカの手を取った。しかし、そこにはもう何の動きもなかった。ただ、冷たく白い手があるだけだ。
「……気のせいだろう。五年間、何度も幻を見た。指が動いた。睫毛が震えた。声が聞こえた。全部——私の願望が見せた幻だ」
フロストは力なく笑った。
「私は心理学者だ。自分の願望が作り出す幻覚のメカニズムくらい、熟知している。だから——もう信じないことにしたんだ」
その言葉を聞いたとき、ミルカはペンをノートに走らせた。文字が震えている。
(彼は五年間、妻の反応を「信じる」ことをやめてしまった。幻覚だと思い込むことで、期待して裏切られる痛みから自分を守った。それは——もう一つの「透明な鎧」だ)
「俺は見た」
ガントが言った。
「俺も見た。確かに動いた」
「……君たちまで、私の幻覚に付き合う必要は——」
「幻覚じゃねえ!」
ガントの声が洞窟に響いた。
「あんたは心理学者として、幻覚のメカニズムを知ってるんだろ? なら教えてくれよ。他人の目に映ったものまでが幻覚に見える現象を、心理学でなんて言うんだ?」
フロストの口が開き、そして閉じた。眼鏡の奥の目が、何かを必死に計算している。
「……共有幻覚。または——」
「または?」
「……現実」
その瞬間、フロストの中で何かが音を立てて崩れた。彼はゆっくりと膝をつき、リリカの手を両手で包み込んだ。
「……リリカ。聞こえるか」
返事はない。
「聞こえなくてもいい。五年ぶりに——ちゃんと言う。おはよう。今日も、君の好きな雪の日だ」
リリカの指が——もう一度、微かに動いた。今度は、フロスト自身の手の中で。
「…………あ」
フロストの目から、五年ぶりの涙が、音もなくこぼれた。
◆
六
洞窟を出ると、外は信じられないほど明るかった。氷原に陽光が反射して、世界全体が光っているように見える。
フロストはリリカを背負っていた。彼女の体重は羽のように軽い。五年間、まともに食べられなかったのだろう。
「禁術は——やめるのか?」
「……禁術など、最初からなかったのかもしれない」
フロストの声は、さっきまでよりずっと穏やかだった。
「『共感の強制転移』——あれは、相手の心を強制的に開く術ではない。自分の心のすべてを、見返りを求めずに相手に委ねる術だ。つまり——」
「結果を手放した誠実さ。第二定理だ」
ミルカがノートにそう記した。彼女の筆跡は、今までで一番力強かった。
「私は心理学者として、誠実さの第一定理を『与えること』と定義した。だが——足りなかった。結果を求めない誠実さこそが、最も硬い氷を溶かす。それを教えてくれたのは——」
フロストはディルを見た。
「心理学の学位も持たない、レベル1の戦士だった」
「え、俺?」
ガントが吹き出し、ミルカが笑い、カサイが背を向けて肩を震わせた。
一行が氷原を抜け、北の国境の街にたどり着いたのは、それから三日後のことだった。街の小さな診療所にリリカを預け、フロストはユーリに手紙を書いた。図書館の修復を手伝う、と。
嵐の後のような静けさが、街を包んでいた。
しかし——
その夜、診療所の窓から見える南の空に、見覚えのある黒い雲が立ち込めていた。広場で見たのと同じ、不吉な雲だ。
ディルはそれを、じっと見つめていた。
「なあ、ミルカ」
「なに?」
「血文字の布の主は、フロストじゃなかったってことか」
ミルカのペンが止まった。ガントが顔を上げる。カサイが眉をひそめる。
フロストは図書館を襲った。しかし彼は、血文字の布を残してはいなかった。彼が握っていたのは——まったく別の、古い手紙だったのだ。
「じゃあ……あの血文字を残したのは、誰なんだ?」
その時、街の掲示板に、一枚のクエスト書が貼られた。まだインクの乾いていない、真新しい羊皮紙。
【クエスト:誠実さの第二定理を証明せよ】 依頼主:名乗るほどの者ではない 報酬:世界の美しさ 内容:君たちがフロストにしたように、今度はこの王国そのものの『解離』を癒やしてほしい。戦争で傷ついた民の心は、一人のリリカよりも深く、暗く、そして——誰にも見えていない。
掲示板の前に立つディルたちの背中を、遠くの物陰から見つめる影があった。フードを深く被り、性別も年齢もわからない。
影は、かすかに笑ったように見えた。
第4巻・了 次巻『共感の牢獄』に続く
『透明な鎧のバラッド』新章