【12】台湾——「いとこ」が自分の家を建てるとき
父(中国)の血を引きながら、長男(日本)の家で半世紀を育ち、いまは自分の鍵を持ち自分のルールで暮らす——台湾は「家族」の中で兄弟でも他人でもない、唯一無二の「いとこ」だ。
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created: 2026-06-16
series: 家族としての東アジア史
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【12】台湾——「いとこ」が自分の家を建てるとき
東アジア歴史館プロジェクト 第12稿
父(中国)の血を引きながら、長男(日本)の家で半世紀を育ち、いまは自分の鍵を持ち自分のルールで暮らす——台湾は「家族」の中で兄弟でも他人でもない、唯一無二の「いとこ」だ。その特異な軌跡を、在日韓国人の視点から読み解く。
2026-06-16 | KT | 約6,000字 / 読了15分
シリーズ:港町がつないだ三国史 / 記憶の戦場 / 女性の声 / 犠牲者意識がナショナリズムに 次回予定:「家族」という比喩そのものを検証する——東アジア家族論の可能性と限界
序章 「いとこ」という存在——家族でも他人でもない者
父(中国)の家には、もうひとり、家族と呼ぶべきかどうか微妙な存在がいる。それが台湾だ。
台湾は父の血を引いている。漢民族としての文化も、文字も、儒教的な家族観も、たしかに受け継いでいる。しかし台湾は、長いあいだ父の家には住んでいなかった。むしろ長男(日本)の家で半世紀を過ごし、そのあと自分の家を建てた。いまは自分の鍵を持ち、自分のルールで暮らしている。
父は言う——「おまえはまだ俺の家の者だ」と。台湾は答える——「いや、俺は俺の家を持っている」と。
この対話が、50年以上つづいている。
家族のメタファーで言えば、台湾は「兄弟」ではない。日本・韓国・北朝鮮は、父の家の中で兄弟として争い、分断し、いがみあってきた。しかし台湾は、その兄弟喧嘩の圏外にいた。長男の家で育てられ、兄弟たちとは違う道を歩んだ。
いとこ——それが、もっとも近い。
第1章 血のルーツ——明清時代の移民たち(17〜19世紀)
台湾の「家族」としての物語は、父(中国)の家から出ていった者たちからはじまる。
17世紀、福建省や広東省の沿海部は人口過剰と飢饉に苦しんでいた。農民たちは危険な台湾海峡を渡り、「台湾」という未開の島に新しい生活を求めた。彼らは父の家の「次男・三男」だった——家督を継げず、食い扶持を失った者たち。いわば、父の家から「出ていった」人々だ。
一方、島にはすでに住んでいる人々がいた。オーストロネシア語族の先住民族——現在「原住民」と呼ばれる人々だ。彼らは父の家とはまったく無関係の、独自の文化と暮らしを持っていた。
この二重構造——漢族移民と先住民族——が、台湾の「血」の複雑さの始まりだ。台湾は、単なる「父の子どものひとり」ではない。父の家から出ていった次男・三男たちが、先住民という「先約者」のいる土地に流れ着いて築いた、新しい家なのだ。
17世紀半ば、オランダ東インド会社が台湾南部にゼーランディア城を築き、スペインが北部に進出した。しかし1661年、明の遺臣・鄭成功がオランダを追い払い、台湾に漢族政権を打ち立てた。清朝(父の正当な後継者)は、この「反抗したいとこ」を1683年に制圧。以後、台湾は清朝の一部として統治される。
しかし父の関心は薄かった。「化外の地」——文明の外側にある辺境。その認識が、のちに台湾を長男(日本)の手に渡す伏線となる。
💡 家族で言うと: 父の家で居場所を失った次男・三男たちが「新しい土地で一旗揚げよう」と海を渡り、先住者のいる島に流れ着いた。彼らは父の言うことより、自分たちの生き残りを優先した——それが台湾という「家」の始まりだった。
第2章 長男の家で育った半世紀——日本統治時代(1895〜1945)
1895年、日清戦争に勝った日本(長男)は、下関条約で台湾を獲得した。
これは家族の歴史において決定的な転換点だった。父(中国)の血を引く台湾が、長男(日本)の家に「引き取られた」のである。台湾に選択権はなかった。家族の中での「身売り」のようなものだ。
最初の数十年、長男の統治は苛烈をきわめた。台湾人の武装抵抗は徹底的に鎮圧され、土地調査によって多くの農民が土地を失った。長男は台湾を「資源の供給源」として扱い、米や砂糖を本国に吸い上げた。台湾人は二等市民——いや、「家族」ですらなかった。植民地の「労働力」だった。
しかし1910年代後半から、長男の態度は変わりはじめる。第一次世界大戦後の「大正デモクラシー」の波が台湾にも届き、「内地延長主義」が掲げられた。学校が建設され、日本語教育が普及し、衛生環境が改善した。台湾人エリートの一部は日本の大学に留学し、医者や弁護士になった。
この「同化」政策は、家族の比喩で言えばこうだ——長男は台湾を「弟」としてではなく、「自分の家の子」として育てようとした。言葉を教え、ルールを教え、ときに暴力で従わせながらも、「家族の一員」にしようとした。しかしそれは「対等な家族」ではなく、「長男の庇護下にある被保護者」としてだった。
1930年代後半、戦時体制に入ると、長男は台湾に「皇民化」を強要した。日本語の使用、神社参拝、志願兵制度——台湾人を「完全な日本人」にしようとする最後の同化圧力である。約20万人の台湾人が日本軍に動員され、3万人以上が戦死した。
1945年、長男が敗戦した。台湾は「光復」——父の家への復帰——を迎える。しかし、半世紀も長男の家で育った台湾は、もはや「ただの父の子」ではなかった。日本語を話し、日本の制度に慣れ、長男の家の「やり方」を身につけていた。
父の家に戻った台湾は、かつての自分とは別人だった。
💡 家族で言うと: 長男の家に引き取られたいとこは、最初は使用人のように扱われた。だが長男は次第に「この子も家族の一員にしよう」と考え、言葉やマナーを教え込んだ。しかしそれは「対等な家族」としてではなく「俺の庇護下にある者」としてだった。敗戦でいとこが父の家に戻されたとき、いとこは日本語で考え、日本式のルールで動く人間になっていた。
第3章 父の代理を名乗る者——白色テロと戒厳令(1945〜1987)
1945年、台湾は「中華民国」の統治下に入った。しかし、その「中華民国」を率いていたのは、すでに父(中国)の正当な後継者ではなかった。1949年、国共内戦に敗れた蒋介石の国民党が台湾に逃れてきたのだ。
家族の比喩で言えば——これは父の家の「内紛」に台湾が巻き込まれた形だ。父の家を乗っ取った共産党(中華人民共和国)から逃れてきた国民党が、台湾という「いとこの家」に押し入り、「ここが正当な父の家だ」と宣言した。
蒋介石は台湾に「反攻大陸」——大陸を奪回して父の家を取り戻す——という建前のもと、強権的な統治をおこなった。1947年の二二八事件では、数千人の台湾人が殺害された。1949年から1987年までの38年間、台湾は戒厳令下に置かれ、言論・集会・結社の自由は厳しく制限された。いわゆる「白色テロ」の時代である。
国民党は台湾人に「おまえたちも中国人だ。いずれ父の家に帰るのだ」と言い続けた。しかし現実には、国民党のエリート(外省人)が政治を独占し、台湾人(本省人)は二級市民として扱われた。皮肉なことに、長男(日本)が去ったあとにやってきた「父の代理人」は、長男以上に抑圧的だった。
しかし、この時代に台湾経済の奇跡的な成長もあった。土地改革、輸入代替工業化、輸出志向工業化——台湾は「開発独裁」のもとで急速に近代化し、のちに「アジア四小龍」と呼ばれる繁栄を築いた。
💡 家族で言うと: いとこがようやく長男の家から父の家に戻ったと思ったら、父の家の「内紛」に巻き込まれた。父の家を追い出された親戚(国民党)が「俺たちが正当な父の家だ」と言って、いとこの家に押し入ってきたのだ。いとこは長男の時代よりひどい抑圧を受けた——しかしこの時期、いとこの家の経済は奇跡的に成長し始めた。
第4章 自分の鍵を持つ——民主化と台湾化(1987〜2000)
1987年、蒋経国(蒋介石の息子)が戒厳令を解除した。38年ぶりに、台湾の人々は自由に話し、集まり、政治に参加できるようになった。
この民主化のプロセスは、家族の比喩で言えば——いとこが「自分の家の鍵」を手に入れた瞬間だ。もはや父の代理人に管理される存在ではなく、自分で自分の家のルールを決める存在になった。
1996年、台湾初の直接総統選挙で李登輝が当選した。李登輝は本省人(台湾生まれの台湾人)として初の総統であり、彼の政権下で台湾の「本土化」(台湾化)が加速した。教科書は中国中心の内容から台湾中心に書き換えられ、台湾語や客家語、先住民語の復権が進められた。
これは、家族の枠組みを根底から揺るがす出来事だ。いとこが「そもそも俺は父の家の者じゃないかもしれない」と言いはじめたのだ。
「台湾人」というアイデンティティが、それまでの「中国人」という枠組みに代わって前景化した。もちろん、すべての台湾人がそう考えたわけではない。「自分は中国人だ」と信じる人々、「台湾人でも中国人でもある」と考える人々、「台湾人であって中国人ではない」と主張する人々——台湾のアイデンティティは、いまもこの三つの層が重なり合っている。
💡 家族で言うと: いとこはついに「自分で鍵をかける権利」を手に入れた。そして言いはじめた——「そもそも俺、父の家の者じゃないんじゃないか?」。家族の定義そのものが揺らぎはじめた瞬間だ。ただし家中の意見は割れている。「いや俺は父の子だ」「どっちもだ」「いや台湾人であって中国人じゃない」——一枚岩ではない。それこそが民主主義だ。
第5章 父が「帰れ」と言い、いとこが「いやだ」と言う——現在の台湾(2000〜現在)
2000年以降、台湾の民主化はさらに定着し、政党交代も平和的におこなわれるようになった。しかし、父(中国)の側の態度は、いとこの「自立」が進むほどに硬化していった。
2005年、中国は「反国家分裂法」を制定し、台湾の独立宣言に対して「非平和的手段」をとりうると明記した。2022年以降、中国人民解放軍の台湾周辺での軍事演習は常態化し、経済的圧力と軍事的威嚇の両面から、いとこに「父の家に戻れ」と迫りつづけている。
家族の比喩で言えば、これは「毒親」の論理だ——「おまえは俺の子だ。俺の言うことを聞け。さもなければ、どうなっても知らないぞ」。
一方、長男(日本)と次男(韓国)は、微妙な立場にある。二人とも台湾と深い経済関係を持ち、民主主義という価値観を共有している。しかし父(中国)との経済的結びつきも強く、正面から父に逆らうことはできない。長男は「台湾海峡の平和と安定は重要だ」と繰り返し、次男は静かに台湾との半導体サプライチェーンを維持している。
ここに、家族の悲劇がある——兄弟たちは、いとこが不当に扱われているのを知っている。しかし父の怒りを恐れて、声をあげることができない。
💡 家族で言うと: 父はいとこに「帰ってこい」と怒鳴り、塀の外で武器を鳴らしている。長男も次男も、いとこが正しいと内心思っている。でも父の経済力に依存しているから、正面からは言えない。「海峡の平和と安定が大事だよね」と繰り返すだけ。家族の中で最も弱い者を、誰も守れない——これがこの家族のいちばん深い傷かもしれない。
第6章 境界人にとっての「もうひとつの家族」——在日から見える景色
在日韓国人として、台湾を見るとき、私には独特の「重なり」が見える。
私たち在日は、父(韓国/朝鮮)の家から出て、長男(日本)の家の敷地内で暮らしている。帰る家は「ある」が、そこでは「よそもの」扱いされる。いまいる家でも「よそもの」扱いされる。この「どっちつかず」の感覚は、台湾の人々が感じている「どっちつかず」と共振するものがある。
台湾の人は、父(中国)から「おまえは俺の子だ」と言われ、しかし父の家には住んだことがなく、帰りたいとも思っていない。自分で建てた家で、自分たちのルールで暮らしている。それなのに、父は「帰れ」と脅しつづける。
この「アイデンティティの圧力」は、国家規模で起きているだけで、じつは個人の日常にも遍在している。親の期待に縛られる子ども、世間体に縛られる個人、「こうあるべき」に縛られるすべての人——台湾の物語は、東アジアの「家族」という寓話の、もっとも痛切な一章なのだ。
💡 家族で言うと: 在日も台湾も「中間に立つ者」だ。どちらの家からも「お前はうちの子じゃない」と言われ、でもどちらの家の影響も受けている。この「どっちつかず」は孤独だが、同時に特権でもある——どちらの家の「正しさ」も絶対視しない視点を持てるからだ。
終章 いとこは「家族」に戻るべきか
台湾は家族に戻るべきなのか。
この問いは、じつは「家族」の定義そのものを問い直すものだ。家族とは血縁なのか。それとも、共に生きる意志なのか。父が「血がつながっているから家族だ」と言うとき、いとこは「でも俺たちは別々に生きてきた」と答えている。
私がこれまで書いてきた東アジアの「家族」論は、「血のつながりを思い出せば、また兄弟になれる」という希望に貫かれている。日本・中国・韓国・北朝鮮——この四者は、たしかに長い時間を「家族」として過ごしてきた。
しかし台湾は、ちがう。台湾は、家族の中にいながらにして、つねに「家族の周縁」にいた。父の家から出ていった者たちが築き、長男の家で育ち、父の代理人に支配され、そして自分の家を建てた。
だからこそ、台湾の存在は、この「家族」の比喩に新しい問いを投げかける——「家族」とは、帰属を強要されるものなのか。それとも、自分で選び、自分で建てるものなのか。
いとこが家族に戻るかどうか——その答えを決める権利は、父にも、長男にも、次男にもない。いとこ自身だけが、その鍵を握っている。
💡 家族で言うと: 血のつながりだけで「家族」が決まるなら、それは牢獄と同じだ。ほんとうの家族とは、一緒にいることを選び、互いの違いを認め、それでも同じ食卓を囲むことではないか。だとしたら、いとこが家族に「戻る」かどうかより、父が「戻れ」と言うのをやめることのほうが、先決かもしれない。
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