絵本小説『$MAIDO』第十二回〈六法〉
閉庁の、音楽が、鳴った、のは、五時半だった。職員が、順に、靴音を、立てて、廊下へ、出て、行く。犬飼は、動か、なかった。机の、引き出しの、鍵を、開けた。中に、昼の、メモは、ない。メモは、六法の、頁に、挟めて、ある。鍵を、掛け、財布を、上着に、入れた。廊下の、自動販売機、の、前に、立った。缶コーヒーが、一本、落ちた。
灯りの、下で、缶を、開けた。廊下の、窓は、暗い。窓の、下に、川は、見えない。川の、ほうは、別の、棟の、陰に、なって、いる。昼、聖人が、歩いて、行った、方向だ。犬飼は、窓に、自分の、影を、見た。影の、手に、缶が、映って、いる。役所の、職員が、缶を、持って、廊下に、立つ。それは、仕事の、内でも、外でも、ない。三十年、そういう、時間を、過ごして、きた。

机に、戻り、上着を、掛けた。六法を、引き寄せ、頁を、開く。赤い、栞の、位置に、緑の、メモが、挟まって、いた。昼の、四行。入る、一円。出る、一円。手数料、ゼロ。卵は、二百八十。条文の、左に、その、メモを、置いた。字の、並びが、違う。条文は、一文が、長い。括弧が、二つ。ただし書きが、三つ。メモは、一文が、短い。短い、字の、束を、法律が、読める、形に、する、方法は、ない。
ペンを、持ち、メモの、下に、書いた。預かる、人。発行する、人。戻す、場所。三つの、欄を、枠で、囲んだ。枠を、見て、犬飼は、ペンを、止めた。様式に、ならない。窓口が、受け取れる、のは、様式だけだ。様式の、ない、ものは、窓口を、通らない。それで、いい。通りたくて、来た、束を、持って、帰らせた。止めなかった。作らなかった。三つの、行為の、うち、悪い、ものは、一つも、ない。

缶を、飲み、残りを、机の、隅に、置いた。電気は、一つ。デスクライトの、円い、輪が、机の、上に、ある。輪の、外は、暗い。パーテーションの、向こうに、他の、机が、並ぶ。どの、机も、その、時間に、誰も、いない。窓口は、朝、九時に、開く。開けば、用紙が、並ぶ。転居の、届け。印鑑の、登録。枠の、中に、書かれた、市民の、一日が、来る。それを、受ける、のが、自分の、机だ。あの、束は、来ない。
犬飼は、六法の、頁を、一枚、進めた。資金決済法の、隣に、景品表示法の、話が、続く。昼、結城が、口を、挟んだ。言葉を、変えないで、くれ、と。窓口の、言葉は、条文の、言葉と、違う。窓口の、言葉は、市民が、安心して、帰れる、言葉だ。条文は、帰る、人を、作らない。置く、だけだ。二つの、言葉の、間に、犬飼は、三十年、立って、きた。今日は、その、間に、三枚の、紙が、通った。通らずに、戻った。
緑の、メモを、外し、平らに、して、頁に、挟み直した。赤い、栞と、緑の、メモが、二枚、並ぶ。頁を、閉じると、両方、見えなく、なる。開けば、条文の、横に、並ぶ。隙間は、数ミリだ。その、数ミリが、窓口と、あの、束の、距離だと、思った。近い。触れる。重ならない。犬飼は、本の、表紙に、手を、置いた。本は、分厚い。手の、ひらに、温度が、残る。置いて、おけば、明日も、そこに、ある。

帰り支度を、した。六法を、机の、引き出しに、収め、鍵を、掛けた。缶の、空きを、廊下の、箱に、入れた。外は、暗い。入口の、自動ドアが、開く。外の、空気は、冷たい。駐輪場に、自分の、自転車が、一台。ペダルを、踏み、川沿いの、道に、出た。自転車の、前灯が、道を、短く、照らす。川の、向こうに、商店街の、灯りが、一列。九時半に、開く、窓口と、九時に、開く、店。開く、時間が、三十分、違うだけだ。犬飼は、明日の、朝を、思い、ペダルを、踏んだ。
次回〈卵、再び〉—— 商店街の、朝。青木の、棚に、卵の、パックが、並ぶ。上田の、油性ペンの、日付。聖人の、鞄の、束が、外の、空気に、出る。
連載『$MAIDO』は毎日17時30分、この紙面で。