アルファ・ケンタウリへの航海日誌 第3話——交わらぬ最速
EVOとの出会い、二台の車、二つの哲学。同じ最速を目指し、交われなかった二人。
『ザ・ブラント中央計算機関』
その名を、私は知っていた。
国家の電子頭脳を裏から支える、最高峰の研究機関。表向きは巨大な組織の一部でありながら、その内部には、組織の枠だけでは測れない異能の技術者たちがいると噂されていた。
メッセージの送り主は、その一人だった。
「お前のグリッドと、そのデータ保有量のアーキテクチャに興味がある。ミヤコ特区で会おう」
署名の代わりに、短いコードネームが添えられていた。
――EVO。
それが、私が彼を呼ぶ名になった。
仕事を終えた夕刻、私はインプレッサ・STIのキーを握り、ミヤコ特区へ向かった。

古い文化と歴史が息づく街並み。その華やかな中心街のすぐ隣、役所の庁舎がそびえるオフィス街の一角に、『ザ・ブラント』の研究所はあった。
私が訪れたのは、日中のエンジニアたちが仕事を終え、建物から人の気配が引いていく時間だった。
案内された研究所は、妙に清潔で広かった。
一階の工場が油圧と樹脂と機械油の匂いに満ちた場所なら、ここは純粋な電子と理論の空間だった。
作りかけの奇妙な装置。 分解されたパソコンの基板。 無数の精密工具。 用途の分からない特殊なカメラ。
国家の予算で作られた、大人のための贅沢な玩具箱。

私は、ただただ楽しかった。
「こっちだ」
EVOは部屋の奥にあるラックを指した。
そこには、スリーウェアのRAIDカードを惜しげもなく使ったストレージ群が、寸分の乱れもなく収められていた。配線は整い、障害が起きても即座に切り離せるよう設計されている。

私の二階が、あり合わせの部品と現場の勘で育った生き物なら、彼のシステムは、すべての挙動を予測して作られた精密機械だった。
「これも、機関の仕事なのか」
私が尋ねると、EVOは笑った。
「まさか。連中は、この箱の中で何が走っているか知らない」
彼は機関の莫大な計算資源と回線の隙間に、自分の『波紋』サーバーを潜ませていた。
組織から高額の報酬を受け取りながら、その組織のアセットを誰より深く理解し、自分の目的のためにも使う。
飼われているように見えて、首輪の構造まで解析している男だった。
EVOは椅子を引き寄せ、机の上に二つの構成図を並べた。

一つは彼のシステム。 もう一つは、私の工場二階のノードだった。
「この二つを合わせれば、世界中の企業の背骨を独占している『ゼニス・システム』にだって負けない」
彼の目が、少年のように光っていた。
「新しい基幹システム会社を作れる。中央の巨大な箱に全部を預ける時代は終わる」
彼は、当時まだ世間に馴染みのなかった技術を次々に語った。
コンセントからネットワークを引く。 電力線そのものを、トラフィックの導管にする。 中央サーバーを介さず、個々のローカルマシンにデータを持たせる。 どこか一つが止まっても、全体は生き続ける。
彼が描く未来は、私の脳を激しく刺激した。
私たちは、夜が明けるまで話した。
工場の動力設備と、国家機関の計算資源。 現場で鍛えた私の分散システムと、彼の完璧な統制技術。
二つを組み合わせれば、本当に世界の背骨を作り替えられるように思えた。
だが、同じ最速を目指していても、私たちが信じる速さは同じではなかった。
その違いは、二人の車に現れていた。
EVOの愛車は、ランサー・EVO。
電子制御が四輪の状態を読み、路面に合わせて力を配る。運転者の意志さえ計算へ取り込み、最適な答えを冷徹に路面へ伝える機械だった。
私の愛車は、インプレッサ・STI。
水平対向エンジンの振動と咆哮を身体で受け取り、滑り出す瞬間を五感で捉え、自分の手足で路面をねじ伏せる。
ミヤコ特区のネオンを背に、二台で峠や高速道路を並走した。

直線では、EVOが一切の無駄なく前へ出る。 荒れた路面へ入れば、私はステアリングから伝わる情報を頼りに、その背中へ食らいつく。
彼は制御によって人間の限界を越えようとした。 私は、人間の感覚を拡張して限界を越えようとした。
どちらも速かった。
だからこそ、交わらなかった。
現実の波が押し寄せたのは、その少し後だった。
私には守るべき会社があった。 愛する妻がいた。 これから築いていく家族があった。
技術、経営、生活、愛情。
どれか一つを選べば、他を切り捨てなければならないような局面が、同時に訪れた。
EVOは眠らず走ることができた。 彼には、すべてのリソースを技術へ注ぎ込める自由があった。
私は違った。
最後に研究所を訪れた夜、EVOは新しい構成図を机いっぱいに広げていた。
「次は、この拠点を増やす。お前の工場を西のノードにする。半年あれば、ゼニスの主要顧客へ食い込める」
彼の声には迷いがなかった。
私は図面を見た。
正しかった。 技術的には、恐ろしいほど正しかった。
だからこそ、答えるまでに時間がかかった。
「これ以上は、ついていけない」

EVOの指が、図面の上で止まった。
「速度が足りないなら、こちらで補う」
「速度の問題じゃない」
私は首を振った。
「俺には、置いていけないものがある」
しばらく、空調とディスクの回転音だけが聞こえていた。
やがてEVOは、机の上の構成図をゆっくり畳んだ。
「そうか」
それだけだった。
責める言葉も、引き止める言葉もなかった。
研究所を出ると、夜の駐車場に二台の車が並んでいた。
ランサー・EVOのエンジンが、低く整った音で目を覚ます。 少し遅れて、私のインプレッサ・STIが荒い鼓動を返した。
ミヤコ特区を抜けるまで、私たちは同じ道路を走った。
最後の分岐で、彼のテールランプは左へ流れた。

私は右へハンドルを切った。
バックミラーの中で、赤い光が小さくなっていく。
夢見た『ゼニス・システム』への挑戦は、未完のまま終わった。
彼は今、どこで、どんな最速のシステムを組んでいるのだろう。
あの日、コンセントからのネットワークや、サーバーレスの未来を少年のように語っていた、ランサー・EVOの男。
私は今でも、もう一度会いたいと思っている。
(第3話・了)