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透明な鎧のバラッド 第5巻——共感の牢獄

血文字の主は、かつて誠実さを拷問に使われた元・心理学者ソルだった。壁一面の『ごめんなさい』——無間地獄で第二定理を証明せよ。

透明な鎧のバラッド 第5巻——共感の牢獄

透明な鎧のバラッド 新章 第5巻:共感の牢獄

前巻までのあらすじ:北の氷原で、フロストとリリカを救ったディルたち。しかし血文字の布を残したのはフロストではなかった。掲示板に現れた新たなクエスト——「王国そのものの解離を癒やせ」。物陰からそれを見つめる、謎のフードの影。

◆

一

掲示板の前で、四人は立ち尽くしていた。羊皮紙のインクはまだ乾いていない。ついさっき、誰かがここに貼ったばかりだ。

掲示板の前の四人

「王国そのものの解離、だって?」

ガントがクエスト書を指でなぞる。

「つまり——戦争で傷ついた全員を、俺たちが癒やせってことか? 正気かよ」

「正気じゃないわ」

ミルカが言った。彼女はノートを開き、ここ数日で書き溜めた観察を読み返している。

「でも、狂気でもない。これは——挑戦状よ。『第一定理、面白い。だがそれで溶かせない氷もある』——あの血文字と同じ筆跡。同じ人物が、今度は『第二定理を証明してみろ』と言っている」

「試してるんだ」

ディルが言った。

「俺たちが本物かどうかを。フロストの時と同じだ。誰かが、俺たちをテストしてる」

「だが、相手は誰だ? フロストは違った。じゃあ誰が——」

カサイが言いかけた時、街の診療所からフロストが飛び出してきた。彼の顔は、氷の洞窟で見せた諦めの表情とはまるで違っていた。青ざめ、そして——怒っていた。

「ディル……見つけた。血文字の布の主だ」

「誰なんだ!?」

「……私の、元・助手だ」

◆

二

フロストが語ったのは、十年前に遡る。

診療所で語るフロスト

宮廷心理学研究所には、フロストの他に四人の研究員がいた。その中で最も若く、最も優秀だったのが——ソルという名の青年だった。

「ソルは、私以上に『誠実さの第一定理』を信じていた。いや——信じすぎていた」

フロストは、震える手で古い研究ノートを開いた。ページは黄ばみ、インクはかすれている。

「彼は第一定理を、単なる心理療法ではなく——社会改革の原理にしようとした。『すべての人間が誠実になれば、戦争も貧困もなくなる』と。私はそれを『理想論だ』と退けた。心理学は個人を癒やすものであって、社会を変える道具ではない、と」

「それで……ソルはどうなった?」

「研究所を去った。そして——戦場に向かった。自らの理論を証明するために、最前線で敵兵と対話しようとしたのだ」

フロストの声が詰まった。

「彼は捕虜になった。二年間、牢獄で——」

全員が息を呑んだ。

「敵国は彼を『心理戦の兵器』として使った。誠実に接してくる捕虜を利用して、他の捕虜たちの心を開かせ、情報を引き出すために。ソルは——自分の信じた誠実さを、拷問の道具にされたんだ」

「……なんてこった」

ガントが拳を握りしめた。ミルカのペンが止まる。ディルはただ、じっとフロストの目を見つめていた。

「戦争が終わって解放された時、ソルはもう——かつてのソルではなかった。彼は言った。『先生、第一定理は間違っていました。誠実さは——最も残酷な武器になる』」

「それで……あの血文字を」

「そうだ。『それで溶かせない氷もある』——あれは私への、そして君たちへの挑戦だ。『お前たちの誠実さが本物なら、私という氷も溶かしてみろ』と」

◆

三

ソルの居場所は、意外なほど簡単にわかった。彼は逃げも隠れもしていなかったのだ。王国の南端——かつて最大の戦場だった嘆きの平原に、彼は一人で住んでいた。

白い花が咲き乱れる嘆きの平原

かつての戦場は、今は花が咲き乱れる草原になっていた。しかしその花々は——すべて白かった。色を失ったかのように。

「……ここ、変だ」

ガントが立ち止まった。

「風が吹いてるのに、音がしねえ。花が揺れてるのに、匂いがしねえ」

「感覚遮断よ」

ミルカがノートを見ながら言った。

「極度のトラウマを負った場所では、自然そのものが『解離』を起こすことがある。これは——この平原全体が、一つの大きな心の傷になっているのよ」

「つまり——」

「ソルは、自分だけの牢獄じゃなくて、戦場そのものを牢獄に変えた。ここに来る者は皆、彼と同じ『無間地獄』を味わう。彼は——自分の苦しみを、世界と共有しているの」

平原の中央に、小さな石造りの家があった。窓はなく、扉だけがぽっかりと口を開けている。

中から、声が聞こえた。若く、しかしひどく擦り切れた声だった。

「入ってこい。待っていた」

◆

四

石造りの家の中は、驚くほど質素だった。机が一つ、椅子が二つ。壁には一面に、細かい文字で何かが書きつけられている。

ごめんなさいで埋め尽くされた壁

「……これは」

ミルカが壁に近づいた。そこに書かれていたのは——無数の「ごめんなさい」だった。筆跡も、インクの色も、書かれた時期もバラバラだ。何年も、何年も、彼はこの壁に向かって謝り続けたのだ。

椅子に座っていた青年が、ゆっくりと振り返った。

ソルは——信じられないほど若く見えた。おそらく二十代後半のはずだが、その目は百年生きた老人のように深く沈んでいる。髪は真っ白に染まり、左手の指は三本欠けていた。

「よく来たな。君が——かの『透明な鎧』を溶かした男か」

ディルは、何も言わずにソルの前に立った。

「あんたが、血文字の主か」

「そうだ。そしてこれから——君たちの第二定理を、破壊する」

ソルは笑った。しかしそれは、フロストの絶望とも、カサイの怒りとも違う——もっと深い、虚無の笑みだった。

「君たちはフロストを救った。立派だ。だがそれは——たまたまだ」

「たまたま?」

「フロストはまだ、救われる準備ができていた。妻への愛が、彼をギリギリで人間につなぎとめていた。だが——私は違う。私は二年間、牢獄で何をされたと思う? 誠実さを武器にされたんだ。私が心を開けば開くほど、仲間が傷ついた。私が優しければ優しいほど、情報が引き出された。私は——誠実という名の凶器で、仲間を殺し続けた」

彼は立ち上がり、欠けた指を見せた。

「これは自分で切り落とした。誠実に人と接するたびに、一本ずつ。三本目で気づいた——もう遅いと。私の誠実さは、すでに何人もの命を奪っていた」

ソルはディルに近づいた。その目は——怒りでも、悲しみでもない。もっと恐ろしいものだった。確信だ。

「さあ、第二定理とやらを証明してみせろ。この私を——誠実さで溶かしてみせろ。できなければ——お前たちの理論は、ただの運の良さだったということだ」

◆

五

ディルは、ソルの前に座った。いつものように、武器を置き、防具を外し、白いシャツ姿で。

ソルの前に座るディル

しかし——何かが違った。

ディルは、何も言わなかった。「おはよう」も言わない。「待ってる」も言わない。ただ——そこに座っているだけだった。

時間が過ぎた。一時間。二時間。日が傾き、部屋の中が橙に染まる。

「……何も言わないのか」

ソルが、しびれを切らしたように口を開いた。

「フロストには『疲れたんだろ』と言ったそうだな。カサイには『おはよう』と言い続けた。私には——何もないのか」

「……うん」

ディルは静かに言った。

「あんたに言える言葉を、俺はまだ持ってない。フロストは疲れてた。じいさんは寂しかった。でも——あんたは、違う」

「何が違う」

「あんたは——疲れてすらいない。寂しくもない。あんたは、全部を手放しちまってる。絶望すら、手放してる。それが——俺には、たまらなく怖い」

ディルの声は、震えていなかった。それは恐怖ではない——理解の震えだった。

「あんたは、第二定理を『証明してみろ』って言った。でも、本当は——証明してほしいんだろ。誠実さが無力じゃないってことを。自分の信じたものが、全部嘘じゃなかったってことを」

ソルの顔から、虚無の笑みが消えた。

「……黙れ」

「黙らない。あんたが自分で自分の指を切り落としたって聞いて、俺は——情けなくて、泣きそうになった。心理学も仏教もわからねえ。でも——たった一人で、牢獄の中で、自分の誠実さが人を殺すって思いながら、それでも誠実さを信じようとした奴がいた。あんたは——」

ディルは顔を上げた。その目は、まっすぐにソルを見つめている。

「——戦場で、一番誠実だったんだな」

◆

六

沈黙が、石造りの家を包んだ。 壁に書かれた無数の「ごめんなさい」が、夕日に照らされて浮かび上がる。

ソルは、ゆっくりと椅子に座り直した。その動きは、まるで錆びついた機械のようだった。

「……私は」

彼の声は、さっきまでよりずっと小さかった。

「私は、フロスト先生に認めてほしかっただけなんだ。『第一定理は正しい』と。『お前の信じたものは間違っていなかった』と。でも先生は——リリカさんにすべてを捧げて、私のことは忘れていた。だから私は——先生の大切な図書館を壊した。先生の一番大切なものを壊せば、私を見てくれると思った」

「……子供みたいだな」

ガントが言った。しかしそれは、嘲笑ではなかった。

「俺も同じだ。姉貴が死んで、誰も俺を見てくれなくなって——スラムで盗みを始めた。捕まれば、誰かが俺を見てくれると思った。お前と——同じだ」

「……君もか」

「ああ。だからわかる。お前が本当に壊したかったのは、図書館じゃない。自分の中の——まだ信じたいと思ってる自分だ」

ソルの目が、初めて揺らいだ。

ミルカがペンを走らせる。

(無間地獄とは、死後に落ちる場所ではない。自分で自分を罰し続ける心の牢獄だ。ソルは自分の指を切り、図書館を壊し、私たちを試した。しかしそれらはすべて——「自分はまだ救われる価値があるのか」という、たった一つの問いだった)

壁の「ごめんなさい」の文字が、夕日の中でかすかに輝いている。

ディルは立ち上がり、壁に手を触れた。

「この『ごめんなさい』は——何人分だ?」

「……数えていない。二百か、三百か」

「じゃあ、あと一つだけ——書いてくれ」

ソルが顔を上げた。

「……何を?」

「『ごめんなさい、ソル』——自分にだ」

ソルはしばらく動かなかった。それから——震える右手で、壁の一番下の隅に、新しい「ごめんなさい」を書き加えた。

壁に自分へのごめんなさいを書くソル

今までの中で、一番小さな文字だった。

第5巻・了 最終巻『空の果ての光』に続く

『透明な鎧のバラッド』新章